固い決意


 新しい火廣金の鍋は、ずっと使ってきたものより一回り大きく、一回り浅い。

 信乃はこの両手鍋を『雨』を煮たお湯を張るのに使っていた。


「うーん。温度と水量の関係が、あともうちょっとで繋がりそうなのに」


 長机の上には実験結果を記した紙が大量に積まれている。

 一枚だけ黄ばんでいるのは、父親の残した記録。


(父さまも、なんて、よく考えたよね)


 亡き父がやろうとしていたこと。

 雨晶に液状の雨薬を閉じこめた、新しい雨の宝石をつくること。

 手紙だと思っていたが、記されていたのは実験の記録だったのだ。

 この工房は、信乃の父の隠れ家だったのだろう。

 隠れ家、と考えている理由は単純で、父親に繋がるはすべて処分されてしまっているからである。何らかの理由でそれを知っていた母親が、娘に託してくれたのだろう。

 真実を確かめる術はないものの、信乃はそう思うことにした。


「これも違う……」


 通常の雨晶をつくりながらの実験は時間がかかるが、信乃はまったくいとわない。


「うーん」「しまった。今日は依頼品の受け渡しの日だった」「だいぶ近づいてきたような気がする……」「できたー!」


 数日後、ようやく望む結晶が仕上がって、信乃はひとり快哉かいさいを叫んだ。


(あとはこれを慎重に磨いて……)


 はやる心を抑えようとすればするほど、手は震えて、鼓動は高鳴る。

 信乃は深呼吸で気持ちを整えながら半日かけて結晶を磨いた。


 ――完成した新しい雨晶は、中に液体が揺れる結晶。


 信乃は爪ほどの大きさの球体を持って外に出る。

 珍しく雲間から光が差している。その光に向けて、雨晶をかざしてみた。


 ゆらり。

 液体が、結晶のなかで揺れる。そして、虹色に輝いた。

 信乃の全身が震える。

 偶然とはいえ、これは長い間求めていた輝きではないか。


「……人魚の、鱗」


 頬をひとすじの雫が伝う。

 昔目にした、焦がれたあの輝き。

 それが今自分の手によって生み出された。

 心のなかにまるで同じような虹色が広がっていくようだ。それはやがて全身に広がっていく。

 生まれて初めての感覚。

 感動なんて言葉では表現できない、よろこび。


「名付けて、癒雨ゆう。できました、父さま……」


 信乃は大切そうに両手で持ち、雨晶へ口づけた。



 ようやく空が白み始めた頃。


「あれ? 信乃さま。こんなところでどうされたんですか?」


 ただの道端で仁王立ちになっている信乃を見て、目を丸くしたのは瀬名だ。


「話があってきました。瀬名さん、陽ノ国から戻ってこられたばかりなんですよね」

「そうです。いつもの髪飾りを売ったり買ったり。そうだ。信乃さまの雨晶もお売りしたいのですが、最近予約を受けなくなったってほんとうですか?」


「はい。今、注文もすべて止めてあります。お待たせしている方はひとりもいません」

「だったら是非お願いしたいものです。信乃さまの雨晶がついた髪飾りなら、どんな高値でも飛ぶように売れていきますよ」


 のほほんとしている瀬名に、信乃は、両手で桐箱を突き出した。


「瀬名さん。これを見てもらえませんか」

「? 拝見します」


 荷物を下ろすと、ぽってりとした指先で瀬名は桐箱を受け取り、開く。なかに入っているものを確認して、瀬名の肩が、凝視しないと分からないくらいの動きを見せた。


「やっぱりご存知なのですね」

「信乃さま。どうして、あなたがこれを」


 なかには『癒雨』が入っている。短期間ではあるが最も大きく美しく仕上げられた、掌よりも一回り小さな結晶。装飾用金剛石と同じかたち。

 信乃は自らが清書した製法表も取り出す。


「これが作り方です。幼いわたしには、どうして父が処刑されなければいけなかったのか分かりませんでした。もしかして父がこの雨薬と雨晶の融合した結晶を研究していて、危険だとみなされたのではないですか?」


 畳の裏に隠された製法表は、大事なところが抜けていた。

 もしこの工程を知ることができれば雨ツ国にとって新たな財産が生まれるだろう。


「実物も作り方もお渡ししますので、取引をしませんか。わたしはあることについての情報がほしいのです」


 信乃は、陽生の件で瀬名のを知った。

 雨ツ国の諜報役。だから頻繁に外国へ出かけたり、やたらと外国の事情に詳しかったりしたのだろう。


「……陽生さまが今、どこにいらっしゃるか」


 ふっ。瀬名の、ほのぼのとした雰囲気がわずかに崩れる。糸目で笑っているのに笑っていない違和感を放った。


「失礼を承知で申し上げます。この私を脅そうとするには、まだまだ信乃さまでは力不足かと存じます」

「はい。それは承知しています。それでも……」

「あなたの父上は、この雨晶の製法を誰にも教えませんでした。それが処刑の引き金となったのは事実です。そして今、あなたがこれをつくったとおっしゃる。二代にわたって悲劇を招くつもりでしたら、娘の義姉であり親友であるあなたを、私は守る方向にしか動きません」


 迫力に気圧されて信乃は一歩後ろに後ずさった。

 まるで全く知らない人間が目の前に立っているようだった。

 ……瀬名は、こんな威圧を放てるような男だったというのか。

 それでもなお、必死に食い下がる。


「同じ悲劇は繰り返しません。わたしは、わたしの道を行きます」

「陽生さまのご両親――つまり国王と女王を手にかけたのが、まさしくだったとしても、ですか?」

「えっ……?!」


 瀬名の告げた事実は雷に打たれたかのような衝撃を信乃にもたらす。

 すぐには信じられず言葉を失う信乃に、瀬名は容赦なく続けた。


「これくらいは調べたらすぐに判る話です。しかしその様子から見ると、信乃さまは知らなかったし、知ろうともしていなかったのですね? そして、あなたには隠されていた、ということです。陽生さまだって信音さまだって、伝えようとすれば伝えることができたのに。信乃さま。あなたは、あなたの気づかないところで、色んなものに守られているんですよ」


 まさしく瀬名の言う通りだった。信乃の脳裏に陽生の言葉が蘇る。


『俺が妻をちゃんと愛していたならこんなことにはならなかったんだ』


 あれは、郁李妃が、という意味を含めていたのだ。

 ……どうして郁李妃は違うと思いこんでいたのか。

 婚礼の儀で一度会っただけの女性だ。穏やかで、美しくて、闇とは無縁だと。

 きっと謀反のなかにおいても陽生の味方であったのだろうと。信じて疑わなかった。

 それなのに。


「あなたが立ち向かおうとしているのは、そういうものなのです。わざわざ黒い炎に身を投じる必要はありません。さあ、館にお戻りください。この雨晶については一度長老と信音さまとお話ししましょう」

「……それでも立ち向かうのが、わたしの求める生き方なんです」


 泣いてはだめだと思った。

 ここで涙を見せたら、瀬名はこれからも絶対に話してくれないだろう。

 毅然と立ってみせなければ、と、信乃は拳を握りしめる。


「そこまで話を聞いておいて大人しく引き下がったらわたしは一生己を恥じて生きていかねばなりません。お願いです。わたしの心を、殺さないでください」


 しばしの沈黙。


「……困りましたね」


 ぽりぽり、と瀬名が頬をかいた。


「紗絢と同じことをおっしゃるなんて。流石、親友」

「紗絢が……?」


 瀬名は深く頷いてみせる。


「かつて、信音さまを慕っていると主張してきたときのことです。あの子は私に『信音さまを好きだという心を殺したくない』と言いました」


 ふぅ、と息を吐き出す。

 威圧は消え去り、いつもの瀬名に戻っていた。


「仕方ありません。陽生さまの居場所をお教えしましょう」


 瀬名は荷物からさっと一枚の地図を取り出した。


「彼らは国を取り戻そうと動いています。機が熟せば行動に移すでしょう」


 地図を受け取って、信乃は深く頭を下げる。


「ありがとうございます。ありがとう、ございます……!」

「まだまだ道のりは長いでしょう。がんばってください。では、私は愛する妻の家に帰るとします」


 瀬名が信乃の横を通り過ぎて行く。


「あのっ、もしかして、陽生さまに情報を流してあげたり、丹生さまとの連絡の橋渡しになったのも」


 すると瀬名は振り返ることなく、右腕を上げてひらひらと振ってみせた。

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