手紙


 翌日は朝から大雨が降っていた。

 傘を持たない主義の信乃でも、視界不良に陥るほどの大雨ならば合羽かっぱを羽織る。いつもの道は裏道のようなものなので、ぬかるみに足をとられてしまう。遠回りになってしまうものの整備されている道を通って工房に向かった。


(この雨ならまだ工房にいるよね?)


 せめて見送りだけはしようと信乃は急ぐ。

 合羽を羽織っていても雨は容赦ない。なんとか工房の入り口まで辿り着き、合羽を脱いで物干しにかける。

 薄暗い。

 明かりをつけると、工房はがらんとしていた。


 きちんと片づけられた様は、まるで初めから誰も滞在していなかったようだ。

 信乃は脱力して、ぺたりと土間の長椅子に腰かける。


(……見送りすらさせてくれないとは思わなかった)


 どれだけの時間、放心していただろうか。

 ふと何かに気づいて、よろよろと立ちあがる。

 長机に一枚の紙が置いてあった。

 雨ツ国の言葉で書かれた手紙。しかし、誰からのものかは明らかだった。


「……達筆だなぁ。流石、王子さま」


 皮肉を込めて呟くと、信乃の口元から自嘲気味に笑みが零れる。


『信乃へ

 これを君が読む頃、おれはおそらく丹生たちと合流できていると思う。

 助けてくれて心から感謝している。感謝してもしたりないくらいだ。信音や、瀬名殿にもこの気持ちはしっかりと伝えてほしい。

 君とおれは生まれも育ちも異なる人間だ。だから、全部知りたいなんて傲慢なことは思わない。ただ、君の一部をおれの心に捕らえておきたかった。

 しかしたくさんの可能性を秘めていた君は、これからますます羽ばたいていくだろう職人になっていた。

 己の浅慮せんりょを恥じる一方で、あらためて尊敬の念を抱くことができた。


 君は稀代の加工士となるだろう。

 永遠の幸せを願っているよ、信乃。

 陽生より

 追伸

 長い髪も、簪も、練り紅も。白装束も、似合っていた。きれいだったよ。』


 読み終えると、信乃は黙って天井を見上げた。

 泣いてはいけないと強く感じていた。

 泣いたら負けだ。

 何に? 己の弱さに。


「兄さまみたいな……愛の告白みたいなこと、書かないでくださいよ」


 思わず笑みが零れる。

 視界は潤むし、鼻の奥は熱い。

 手紙を長机の上へ丁寧に置くと信乃は立ちあがる。

 苦しくても。

 切なくても。

 それを手に入れたいと思える感情。

 それが、恋なのだろう。


(ありがとうございます、陽生さま。この世界にこんな感情があることを教えてくれて)


 ぽたり。


「えっ、ちょっと」


 ぽた。ぽた?


 違和感のある音。その方向を見遣ると、畳の間の天井から雨漏りしていた。


「信じられない! ひとがせっかくしんみりしているっていうのにっ」


 慌てて信乃は布と簡易調理用の雪平鍋をもって畳の間にあがる。畳の一角を拭いて、鍋で雨漏りを受けることにして、がっくりと肩を落とす。

(この工房ってそんなに老朽化していたっけ……?)


 加工士の修業を始めた頃、特別に与えられたのがこの工房だ。ちょうど空き屋だから、と、まだ正気を保っていた頃の母親に言われたのだ。


「……?」


 畳の間に上がることがほとんどなかった信乃にとって、それは意外な発見だった。


(この一枚だけ色が違う? 新しく張り替えたっていうこと?)


 ただの違和感にすぎなかった。しかし、まだ明るい色の畳を、信乃は道具を使って剥がす。


「よいしょっ、と!」


 畳の匂いでむせ返りつつも、信乃は見つけてしまった。

 その下、板の上に。一枚の紙が挟まれていた。


「今日は手紙日和ね」


 皮肉を込めてひとりごちると、信乃はその紙を拾い上げた。

 そして手紙の主に筆跡で気づくとまたもや脱力して座りこむ。


「……父さまの、字だ……」


 雨薬の加工士。

 国を裏切ったとみなされて存在していたすべてを消されてしまった一族。

 母の手にかかって、命を失った父。

 この工房は母親が信乃に与えたものではなかったか?

 どうして隠すようにして父親の書いたものが?

 疑問符ばかりが生まれる。


 外ではまだ滝のように激しい雨が降り続いている。しばらくは、止みそうにない。



 陽生が去ってひと月ほどが経った、ある日の早朝。


「安心したよ」

「え?」


 信乃が炊事場で研いだ米を土鍋に移していると、朝稽古に出ていた筈の信音が声をかけてきた。


「いや、落ち込んでるかなと思ったけれど、びっくりするくらいもりもり働いているから。火廣金の鍋がもうひとつほしいって言ってきたのには驚いたけれど」

「希少金属なのに、無理を言ってすみませんでした」

「大事な妹の為ならお安い御用さ。もしくは人気加工士というべきかな?」


 あるいは、兄は陽生の件で妹に対して引け目を感じているのか。

 しかし信乃にそれを問うことはできないので、曖昧にはにかんで流しておく。


「米を炊き終わったら、もう工房に行くのかい?」

「はい。やることが溜まっているので」


 信乃には新しい鍋を手に入れて確かめなければならないことがあった。

 試してみないといけないことがあった。

 それはまだ、誰にも言っていない。


「仕事熱心なのはいいけれどたまには息抜きも必要だよ。紗絢が、工房に行っても真剣に働いているから信乃にかまってもらえないと嘆いていた」

「ふふ。まるでわたしが紗絢の夫みたいな発言ですね」

「冗談はよしてくれ。それに、僕としても去年みたいに信乃に倒れられたら困ると思っているよ」

「すみません。ほどほどにがんばります」


 よほど気のない返事に聞こえたのだろう。

 信音は、信乃の言葉はまったく信用していないぞ、という風に呆れた眼差しを返してきた。


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