受け渡しの儀式


「工房の裏手にこんな場所があったなんて」


 信乃が案内したのは、中礼拝堂と呼ばれる、雨晶の受け渡しを行う場所。

 雨鉱山の地底湖にあるものと見た目はほぼ同じ造りをしている。


「陽生さまはこの円卓の向かいに立ってください」


 白装束に着替えて、遅れてやってきた信乃が指示する。

 人間がふたり入るとちょうどいい屋根の下。

 信乃の胸元くらいの高さがある小さな円卓は、火廣金でできていた。


「雨晶を置いていただけますか」

「ああ」


 同じく火廣金に包まれた大きな雨晶。

 雨晶の上に信乃が手を重ねる。

 もう何度もそらんじてきた祝詞のりとを、音に乗せた。


『天にいまします我らの糸を編むものよ、我らの始まりを織った力よ。

 その力を以て、天は我らにハレとケを与えたもうた。

 我らはその間に雨を見出した。

 そして、我らはふたつを繋ぐものとして、雨をメグミと唱えた。

 今、我、すなわち雨ツ国の信乃は、このメグミを祈りとし、起点とし、新たな糸を染めんとす。

 贈り手の名は、陽ノ国の陽生。

 天よ、これを認め、我らに与え給え』


 信乃の手が雨晶をなぞりながら底に触れて、掬うように持ち上げる。

 すると。

 ……中礼拝堂の周りだけ、静かに雨が降り出した。

 霧のような細い雨だ。それはまるで中礼拝堂を包む透明なヴェールのよう。


「下に手を添えてください、陽生さま」


 ところが陽生は呆けたように信乃の声に気づかない。


「……陽生さま?」

「あっ、あぁ」


 陽生が手を差し出す。

 そして信乃の手から、雨晶が再び陽生の手へと渡る。

 雨が止むと。

 待っていたかのように。

 中礼拝堂の上に、細い虹がかかる。


「……!」


 光を受けた雨晶もまた、虹のような輝きを帯びていた。

 信乃は陽生に向かって微笑む。

 儀式を行ったことで、ようやく、雨晶をきちんと渡すことができた。


「これでばっちりです。今、正式に陽生さまのものとなりました。って、聞いてますか?」

「……ごめん。今度はほんとうに、見とれていた」

「なっ?!」

「信乃はすばらしい雨の加工士だ。君の雨晶に、これまでもこれからも守ってもらえることが、とてもうれしいよ」


 陽生の瞳がきらきらと輝き出す。

 加工士として。加工士として。

 信乃は小さく復唱する。平静を装いつつ、俯いたまま呟いた。


「……こ、光栄です」


 陽生は、まるで憑き物が落ちたかのように、さっぱりとした表情になっていた。


「おかげで、何もかもなくしてしまったように思いかけたことがそうではないと気づけたよ。おれには、陽ノ国の第二王子としての……誇りがある。これだけは決して他人に奪われることがないものだ」


 陽生が雨晶を大切そうに、しっかりと首にかける。

 そして、心底うれしそうに破顔した。


「ありがとう、信乃」



 それから数日経った日の黄昏時。

 信乃がいつものように工房での作業を終えて帰ろうとすると、外で訓練をしていた陽生が近づいてきた。


「明日、雨ツ国を出て行くよ。ようやく丹生におと連絡がついたんだ。おれは生き残った王家派と合流する」


 向かい合うものの、陽生の表情はよく見えない。

 ただ心配していた従者の名前がようやく出てきて安堵する。


「丹生さまも生きていらっしゃったんですね!」

「そうなんだ。しらせをもらって、ほんとうにうれしかった。丹生はまずおれを逃がしてくれたから」


 信乃は三白眼の従者を思い出す。

 彼は確実に陽生の味方であり、崇拝者だ。敵とみなすものには容赦しないだろう。

 そもそも、信乃ですら丹生には敵として認定されていると思う。


「ここまでほんとうに助かった。何も礼ができなくて申し訳ないが、信音にもありがとうと」

「……わたしもお供します!」


 自らの口から出た言葉に驚いたのは信乃自身だった。

 しかし驚いたのは陽生も同じ。目が丸くなっている。近づいてきて、信乃の両肩に静かに手を置いた。


「それはできない」

「何故ですか」

「おれが立ち向かおうとしている相手は、……妻の一族なんだ」


 どさ。


 信乃は持っていた荷物を地面に落とした。

 陽生の妻の一族とは、力の強い豪族ではなかっただろうか?

 持ちうる情報を信乃は頭のなかに広げる。

 どうして陽生の表情が見えないのだろう、と一瞬思考が逸れた。

 目の前にいるのに怒っているのか泣きそうになっているのかすら分からない。

 どちらかというと笑っているようにさえ感じてしまう。


「俺が妻をちゃんと愛していたならこんなことにはならなかったんだ。あの一族は王位継承権が手に入らないと結論づけて、兄上の危篤に乗じて謀反を起こした。否、もしかしたら危篤ですら仕組まれていたのかもしれない。すべておれの所為だ。おれが、事を収めなければいけない」

 躊躇いがちに声を振り絞る陽生の声は、しっかりと耳を澄まさないと聞き逃してしまいそうなくらいだ。

 信乃のなかには返す言葉が見つからなかった。


「大丈夫。たとえ命を奪われたとしても、おれの誇りが穢されることはない」


 陽生の手が信乃からすっと離れる。


「君がそう教えてくれたんだ、信乃」


 だけど。

 陽生は、今度は信乃を抱き寄せた。


「……!」


 まるで世界に熱を発しているのがふたりだけで、そのことを確かめるかのような強い力。

 強いのに。

 震えている。

 信乃が? ちがう、陽生が。

 雷に打たれたかのように信乃は動けない。

 永遠にも感じられたような刹那の後、陽生は、ゆっくりと信乃から体を離す。


「おやすみ」


 声は、優しい響きを伴っていた。

 それ以上は何も言わず、陽生は工房へと入っていってしまう。

 辺りがすっかり暗くなってしまったというのに信乃はまだ一歩も動けずにいた。

 少しでも歩いてしまったら、消えてしまいそうだったから。

 柔らかな声が。陽生の体温が。

 抱きしめる強い腕の、感覚が。


(……言えばよかったのかな)


 好きだからついて行きたい。

 気づいてしまった想いは打ち消せなかった。

 だけど信乃が想いを伝えたことは一度もない。気づいた瞬間に終わってしまっていたから。

 今だって、工房に明かりが灯っているから戻って告白することはできるだろう。

 だが万が一告白したとして陽生はさっきよりも困るにちがいない。

 紗絢の言葉が胸に刺さる。


『ねぇ、信乃。あなたは何の為に髪を伸ばしてきたの』


 風にどんどん熱を攫われていく。

 ……信乃はまだ、立ち尽くしている。



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