何の為に
*
まだ陽も昇らない、翌朝。
「陽生さまのところへ行くの?」
信乃が玄関で草履を履こうとしていたらその背中に紗絢が声をかけてきた。
振り向かずに答える。
「工房に行って仕事をするだけよ」
「そこには陽生さまがいらっしゃるのに? ねぇ、信乃。あなたは何の為に髪を伸ばしてきたの」
口調は怒っているようでも、紗絢の声は今にも泣き出しそうになっていた。
――何の為に?
信乃は草履に視線を落とした。紗絢とお揃いの布が結ばれている。
黙って履くと立ちあがる。くるりと後ろを向いて紗絢の両手を取った。温かくてやわらかな手だ。
紗絢が信乃のことを心から心配しているのだろうことが伝わってくる温かさ。
心配かけまいと信乃は微笑みながら答える。
「それは、わたしがいちばんわかってる。行ってきます」
雨ツ国の少女は、初恋が終わると、髪を伸ばすことが許される——
それには、想いにけじめをつけなさい、大人への階段を登りなさい、という優しさと厳しさも隠されているのだろう。
今の信乃は髪を結って簪を差しているし、練り紅で化粧もしている。
陽生からもらった練り紅を使い終わるまでは毎日胸が苦しかった。
しかし。
新しい練り紅の蓋を開けたとき、自分が一歩前へ進めたような気がした。
なのに。
それなのに?
(……目覚めてうれしかったとはいえ、抱きついてしまった……)
不意に思い出して信乃は赤くなる。連鎖して記憶が蘇る。
雨晶がほしいと言われたときの押し問答。
ハルから落馬したとき。練り紅をいただいたとき。
それから、信音と紗絢を陰から見守ったときは、手を……。
「いやいやいやいや!」
森に信乃の悲鳴がこだまする。思わず直立不動になって、近くの木に頭をぶつけた。木と土のにおいが一気に鼻へ入ってくる。
涙目になったのを少し拭い、溜息をついた。
最初の方はまだいい。
だけど、後半。
(大丈夫、大丈夫……。気づかれていない筈。告白だってしていないし!)
陽生にはお妃さまがいるのだ。
その場にしゃがみ込んでしばらく頭を抱えたものの、跳ぶように立ちあがって右の拳を突き上げた。
もし周囲に誰かがいたら引くほどに驚いただろう勢いだった。
(うん。無になろう、無に。わたしはこれから仕事に行くだけなんだから)
そして腕と足を大きく振り上げて舗道を歩いて行くのだった。
工房に着くと、外で陽生が柔軟運動をしているところだった。まだ本調子ではないのだろう。時々顔をしかめながら、体の感覚を確かめている。
整った横顔はわずかに憂いを帯びている。
(……はっ。いけないいけない)
不意に見とれていた自分に気づいて慌てて信乃は首を横に振った。そして今来たばかりだと主張するように大声を上げる。
「おはようございます!」
すると陽生が信乃の方を見て、くしゃっと破顔した。
「信乃! おはよう」
ごんっ。信乃は咄嗟に、近くの木に頭をぶつける。
「どっ、どうした?」
「イエ、ナンデモアリマセン」
片言になった信乃がおかしかったのか、陽生がぷっと噴き出す。
信乃は陽生に少しだけ近づく。もちろん、接近はしていない。
「……眠れましたか?」
「おかげさまで。王都から脱出してからずっと、横になって眠ることができなかったから」
話を聞いたところ、陽生は追っ手から逃れる為にかなりの日数を要したらしい。陽生も、暗殺の対象なのだ。
「そんな暗い顔をしないでくれ。おれはこうして生きているから」
「そうですね。わたしは今から工房で仕事をしますので、お昼ご飯は一緒に食べましょう」
「ありがとう。そしたら、ひとに会わないように気をつけつつ、ちょっと川沿いを走ってこようかな」
「無理はしないでくださいね」
「どれだけ無理ができるか確かめに行くんだよ」
軽く数回跳ねて、さっと陽生は走り去ってしまう。
視界から消えて信乃は正直なところほっとした。ずっとここにいられたら集中できる自信がない。
工房に入る。
布団は畳の隅に丁寧に折りたたまれていた。一度館に戻って用意した、昨日の晩ご飯と今日の朝ご飯もきれいに食べて片づけられている。湯呑みもきちんと洗って元の場所に置かれていた。
信乃は昼食の包みを長机に置いて、火廣金の両手鍋を手に再び外に出た。
小型の物干しに汗拭い用の大きな布が洗って干されている。風呂の代わりに勧めた水浴びでもしたのだろう。
ばしゃん。
水晶の
工房に戻り、かまどの上に両手鍋を置き、火をつけた。薪をくべながら火加減を調節する。
どれくらいの量でどのような結晶ができるのか、試行錯誤ではあるものの肌感覚で分かるようになってきた。お昼ご飯を食べ終わるくらいまでに煮詰めてしまえるだろう。
とろ火で安定したのを確認して爪ほどの小さい雨晶に向かい合う。
しゃりしゃり。
静かな工房に作業する音だけが響く。途中から、雨が沸騰している音も加わる。
どんどんやすりの目を細かいものに変えていく。
しかしそこに雑念はない。
美しいものをつくりたい。ただ、それだけ。
装飾用の金剛石のようなかたちに仕立てていくのは、信乃の技術と感覚のみ。
満足いく仕上がりになって、信乃は、慎重に雨晶を絹の上に置いた。
「できたーっ!」
ぱちぱち。
感嘆に合わせての拍手。慌てて振り向くと、工房の入り口に陽生が立っていた。
「いいい、いつから、そこに」
「少し前から。あまりにも真剣だったので、見とれていた」
「へっ」
「間違えた。見つめていた。すごいなぁ、信乃。ほんとうに雨の加工士になったんだな」
「……あああ、ありがとうございます」
「だけどおれが、信乃のつくる雨晶の、最初の客だからな!」
「何故そこで偉そうにするんですか。半ば無理やりだったじゃないですか」
頬を膨らませながらもふと気づき、信乃は立ちあがって両手を叩く。
「そうだ! 受け渡しの儀式をしましょう」
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