歓迎されない王子


 そして再び目を覚ましたのは、何かが信乃の髪の毛に触れていたからだった。


(しまった、寝ちゃってた)


 いつの間にか横になってしまっていた。

 信乃は室内がまだ明るいことに安堵する。慌てて起き上がり、そこでようやく視線に気づく。

 ゆっくりと、ゆっくりと。

 信乃は、視線を下に向けた。


「……髪、伸びたんだな。誰かと思った」


 かすれているものの耳に馴染む懐かしい声。

 信乃の髪に触れていたのは、陽生の弱々しい指先。


「よ、陽生さま。意識が……」


 信乃の瞳に涙が溜まる。

 堪えきれなくなって、陽生の胸元にそっと抱きつく。


「よかった……よかったです……」


 すると陽生が泣きじゃくる信乃の背中を撫でてくる。

 大きな掌も、温かさも。

 何ひとつ、変わっていなかった。


「助けてくれたんだな。……ありがとう」


 すべて、信乃の恋した、ものだった。



 寝ていてくださいと懇願したにもかかわらず、陽生は起き上がり、小袖に着替えた。

 瀬名が信音から預かってきた大きい方の包みに入っていた、信音のものだ。陽生が着替えを求めることを予想していたというなら、瀬名という人間はよほど気が利くのだろう。

 外はいつも通り曇っているものの、まだ陽は高い。


「おぉっと」


 陽生が普段であればつまずかないだろう小石にバランスを崩す。転びはしなかったものの、大地の感触を確かめるように何回か足踏みした。


「陽生さま。やっぱりもう少し休んでいた方が」

「いや、そういう訳にはいかない」


 何かに気づいて、陽生が川辺に向かって歩く。

 落ちていた大木の枝を拾うと杖代わりに突き立てた。満足そうに八重歯を覗かせる。


「うん。ちょうどよさそうだ」

「……よくないと思いますけれど」


 言っても聞かないのは理解している。信乃はしぶしぶ陽生に付き添う。

 案の定、即席の杖があったとしても時々よろめくので、信乃がその度に支えになりながら下流に向かって歩く。

 やって来たのは陽生が倒れていた場所だ。細長く白い板と、見事に咲いた八重桜の枝が刺さっている。

 辺り一帯、僅かに酒の香りを感じる。

 信乃がちらりと陽生を見遣ると、口をきゅっと結んだまま、板から視線を逸らさない。

 板の前では信音と瀬名が立って話をしていた。


「兄さま」


 信音が声に反応して信乃たちへ顔を向けた。

 陽生の姿を見て、ほっとしたように胸を撫でおろした。


「久しぶりだな、陽生」

「信音、ありがとう。礼をしてもしたりないくらいだ。……その」


 陽生の視線が再び板へと向かう。

 ハルを弔った後だというのは信乃の目にも明らかだった。


「陽ノ国の埋葬方法でなくて申し訳ないが、安らかに眠れるよう願ってやってくれ」


 信音が盃を陽生に渡す。

 頷いて受け取った陽生は、その酒を板に向かって静かに注いだ。

 それからゆっくりと膝をつき両手を合わせた。

 瞳を閉じて呟く。


「……ありがとう、大事な友よ。おれをここまで運んできてくれて。おかげで命拾いした。君は最後まで優秀な相棒だった」


 信乃も瞳を閉じて手を合わせる。

 純白の毛並みをした、第二王子の愛馬。

 細いけれどしなやかな四つ足。艶やかな純白の毛並み。つぶらな瞳。上についている耳の先は、くるりと内側に曲がっていて。

 かつて振り落とされもしたけれど、ハルが一途に陽生を慕っていたことは知っている。


「そうですね。流石に追っ手も霧深い雨ツ国までは来られないでしょうから、そういう意味でも最前の選択肢でしたでしょうね」


 黙って見守っていた瀬名がすっと陽生の前に歩み出て、頭を下げた。


「お初にお目にかかります。私は瀬名と申します」

「瀬名さん夫婦が助けてくれたんです。わたしひとりでは何もできませんでした」

「そうだったのか。ありがとう、瀬名殿」


 すると、瀬名は信乃にとって思いもよらぬ言葉を口にした。


「いえ。それよりも、心よりお悔やみ申し上げます」


 陽生の柘榴色の瞳が大きく揺らぐ。


「……そうか。駄目だったか」

「はい。第一王子さまに続き、国王さまと女王さまは、死亡が確認されたようです」


(え……?)


 信音は既に聞かされていたようで動じていないが、信乃にとっては寝耳に水だ。

 死亡という言葉に理解が追いつかない。

 陽ノ国で見た、陽生の両親の顔を思い浮かべる。穏やかそうで、優しそうなひとたちだった。

 亡くなったとは、一体。

 そして、身内のことなのに、どうして陽生は驚いていないのか。


「私はこの国のをしております。陽ノ国にて謀反のくわだてがあるというのは耳にしていましたが、まさかこんな急いだものとは思っておりませんでした」

「兄上の危篤に乗じたんだろうな。それすらも疑わしい。ちくしょうめ」

「なお、第二王子……陽生さまについては、行方不明ということになっているようです。それでも王位継承権に変動はないでしょう」

「あっ、あの。一体どういうことなんですか!」


 諜報役? 瀬名は髪結士ではないのか。

 謀反? 危篤? 王位継承権?

 信乃だけが話についていけない。

 しかし、答える代わりに、信音は陽生に向かって頭を下げた。


「すまない、陽生。助けはしたが、回復次第すぐに雨ツ国から出て行ってほしい」

「兄さま。突然何を言い出すのですか」

「雨ツ国は弱い。四大国のいずれに対しても内政不干渉の立場を貫かねばあっという間に潰れてしまうだろう。僕は君の国を訪ねたとき、その国力に恐れおののいた。昨日が僕の婚礼の儀だった。間もなく僕は首長となる。他国の友人のことも守りたいが、今の僕にとっては国が一番大事なんだ……」


 それでも信音は最後まで陽生に向かうことができず、視線を地面に落とす。

 信乃は驚きのあまり言葉を失う。あの豪華絢爛さが信音を臆病にさせていたとは夢にも思っていなかった。


「承知した」


 しかし。

 ふっ、と、陽生の表情はかえって和らいだ。


「むしろ、助けてもらっただけでもまずいし、匿ってもらえるだけでもありがたい。ちゃんと歩けるようになったら、さっさと出て行くよ」

「兄さまも陽生さまも何を言っているのですかっ」


 話題についていけないなりに、信乃の頭にも血がのぼる。

 なんとか反論しようとする信乃を制したのは、陽生。


「いいんだよ、信乃。おれだって信音と同じ立場なら、まったく同じ決断を下していたよ。信音は為政者として正しい選択をしているんだ」


 この場で、傷だらけの第二王子だけが、笑っていた。


「あぁ、そうだ。信音にこれだけは直接言っておかないとな。……結婚、おめでとう!」

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