両手に握らせた雨晶


 静かな工房に瀬名がそっと、足音を立てないようにして入ってくる。


「馬の方はだめでした。後ほど、二日酔いじゃない男衆おとこしゅう総出で弔ってきます。陽生さまは……」


 工房の奥、一段上がった畳の間に寝かされている陽生と、青い顔で付き添う信乃。

 信乃の向かいに座る紗来が己の口元に人差し指を当てた。そっと立ちあがり、瀬名の元へ歩く。

 妻は夫の耳元で囁いた。


「……さっきと変わらないわ」

「そうか。あとはご本人の体力に賭けるしかないね」

「愛する夫がで助かったわ。信乃さまと私だけではここまでできなかった」


 瀬名は朝方まで館で酒を飲んでいたそうだが、ちっともそんな様子には見えない。

 しどろもどろになっている信乃の話を聞いて陽生を工房まで担いできてくれたのも、ぼろぼろの服を丁寧に剥がして、雨薬に浸してつくられた布で応急処置までしてくれたのも、瀬名だった。


「長老には?」

「第一報は済んでいる。後ほどきちんと報告に上がるとも」


 信乃の耳にも夫妻の会話は聞こえていたものの、情報として処理できそうになかった。

 視界が揺れている。気を抜くと倒れてしまいそうだ。

 陽生の怪我は全身に及んでいた。

 ただ、これはその場にいた全員にとって驚きだったのだが、どれもが致命傷とならずに済んでいたようなのだ。

 陽生が首からかけていた雨晶あまきらのおかげではないか、というのが瀬名の見解だった。

 信乃たちの誰もが雨晶が雨薬の役割を果たすと聞いたことはない。

 しかし、製法も近いので可能性としてはありえるのだろう。陽生の持っていた雨晶がかなり大きい為に、雨薬の役割を果たしてくれているというのもなんだか納得できるのだった。

 今は陽生の両手に雨晶を握らせてある。


「信乃さま。私たちは仕事があるのでいったん家に帰りますが、また昼頃に様子を見に伺いますね」

「はい。あの、ほんとうに、ありがとうございます」

「大丈夫ですよ。陽生さまはじきに目覚めます」


 紗来が声をかけてくれる。

 信乃はなんとか力を振り絞って言葉を発した。


「館で預かってきました。後でいいので、召し上がってくださいね」


 瀬名が、手にしていた大小の包みをふたつ長机にそっと置いた。


「ありがとう、ございます。これは……」

「びっくりしましたよ。館に戻ったら、主役が、残っている全員分の朝餉あさげを用意していたもんですから。まだ詳しく話してはありませんが、心配してました。あ、確実に動揺するので、うちの娘には話していませんけどね。すやすや気持ちよさそうに寝てましたし」


 つまり、小さい方の包みのなかは信音がつくった朝ご飯ということだ。

 主役が宴の翌朝に料理をしているなんて。信音らしいといえば、らしいのだが。


「信乃さまも寝られそうなら眠ってくださいね。睡眠不足や空腹だと、力を発揮することができませんから」

「……はい。ほんとうに、いろいろとありがとうございます」

「いえいえ。では、後は頼みました」


 夫婦には感謝してもしきれない。

 そして工房内は、信乃と眠っている陽生だけとなる。

 体だけではなく、陽生の顔には無数のすり傷があった。整った顔だからこそ目立ってしまう痛々しさ。

 見ているだけなのに、信乃は泣きそうになってくる。

 そっと立ちあがって土間に折り、瀬名の持ってきた包みの小さい方を開いた。竹かごのなかにおにぎりが詰まっている。

 そういえば前にもこんなことがあった、と信乃は思い出す。陽生が初めて工房を訪ねてきたとき、信乃と陽生で川辺に座って、竹かごに詰まったおにぎりを食べたものだ。

 あのとき陽生と接するのが気まずかったことを思い出し、ほんの少しだけ笑みが浮かぶ。

 しかし無理やり雨晶を持って行かれて、結果としてよかったのかもしれない。


 信乃はお湯を沸かして緑茶を淹れる。

 それから音を立てないようにして、陽生を見られる側の長椅子に座った。湯呑みを両手で持つとからだが冷えていたことに気づく。

 緑茶の香りが心地よく、緊張をほぐしてくれるようだ。一口飲んでからおにぎりを頬張った。


「あ。菜めしだ」


 大根の葉だろうか。細かく刻まれて白ごまと共に炒められてある。味つけも、ほどよい塩気だ。ご飯の握られ方も、かたちを保っているのに硬くなっていなくて、口のなかでほぐれていく。


「……ごちそうさまでした」


 ひとつ食べ終わって両手を合わせる。かごの蓋を閉めて、風呂敷で包み直す。お腹を満たすと、信乃は再び畳の間に上がった。

 陽生の様子は何も変わらない。呼吸は規則的にしてくれているから、いつかは目覚めてくれるだろう。

 ただ、それがいつになるか。

 自己回復力に賭けるしかないという。

 瀬名によると毒を受けている可能性は低いらしい。瀬名の手当ての巧みさには驚いたし、とても助かった。


「こんなかたちで再会したくなかったな……」


 信乃は両膝を抱えて、膝の上に顎を乗せる。

 陽生。

 信乃の実らなかった初恋の相手だ。

 最後に目にしたのは二年前、陽生の婚礼の儀だった。

 ほんとうに二度と会うことはないと思っていた。

 でも。

 だからこそ。

 陽生を助けることができて、生きていてくれて、よかった。


(……早く目覚めてくれますように)


 徹夜と、心労による緩みから、信乃はそのままうとうととして、深い眠りに落ちてしまった。


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