悲しい再会


 空が暗くなり始めたのを見計らってそっと信乃は場を離れた。色留袖からいつもの根岸色の小袖に着替えると、館の外に出る。


 舗道を登って工房に着くと、室内に明かりを灯す。

 さっきまでの喧噪が幻のよう。静けさに自然と苦笑いが浮かんだ。

 火廣金ひひろかねの両手鍋で煮詰めて結晶化させた大きめの雨晶あまきらをひとつ、水晶の箱から取り出す。長机の上の明かりで大まかなかたちを確認すると、粗めのやすりで削り始めた。


 しゃっ。しゃっ。


 素早くも繊細に、完成図を想像しながらかたちを整えていく。

 きらきらと削られた粉は足元の絹袋へと落ちる。

 無心の作業だ。

 つい先日、信乃は雨晶の加工士として認められたばかりである。

 雨を汲み、煮詰め、削って仕上げる工程を、長老や先達せんだちによる監督のもと試験は行われた。

 信乃は十六歳の時間のほとんどを工房で過ごした。

 作業に没頭して倒れているところを発見されたのも一度や二度ではない。しかし何度叱責されても、信乃は工房へ行くことをやめなかった。

 その努力が結実して、試験で作製した雨晶は、完璧だと評価された。


 そこからは半人前の頃に予約されていたものの中礼拝堂での受け渡しと、新しい雨晶づくりに追われる日々だった。ひとの手に渡った雨晶は、そこからさらに彫金師の手に渡り、金属を纏って装飾品へと加工されていく。装飾品を目にした別の人間から注文が入る。その繰り返し。

 信乃の雨晶は前評判通り人気となったのだ。

 それでも。


「……やっぱり、これも大きいままじゃだめそうだなぁ」


 いろんな角度から明かりに照らして確認する。大きいままだと光の屈折が弱く、美しさに欠ける。そう判断せざるを得ないと結論づけて、肩を落とす。

 石割刀を取り出すと、慎重に木槌で叩いてふたつに割った。また初めから磨き直しだ。

 大きなまま残せた雨晶は二年前のたった一度きりだ。

 今の技量なら加工できたかもしれないと考えると惜しいことをしてしまったとも思う。何せ、もう目にすることは叶わない相手に渡ってしまったのだから。


 陽ノ国はるのくにの第二王子、陽生ヨウセイ


(……大事にしてもらえているといいけれど)


 信乃は小さく溜息を吐き出した。

 婚礼の儀に参列した際、豪華絢爛な住まいを目にしてしまった。

 あのなかでは雨晶の美しさなど埋もれているかもしれない。それはそれで悲しいけれど、仕方のないことだとも思う。

 瀬名からたまに話を聞くところによると、第一王子の代理として一層の激務をこなしているらしい。この夏には雨ツ国の信音と同じく、第一王子の即位式が予定されているらしいので、国力を蓄える為にがんばっているのだろう。


 それなら信乃は自らに与えられた仕事をがんばろう。

 稀代の加工士と呼ばれるようになろう。

 いつか、見せてもらった『人魚の鱗』を越えるような雨晶をつくろう。


 ――信乃の、目標だ。


 しゃりしゃり。しゃりしゃり。


 再び、信乃は無心になって雨晶を磨いていく。

 五個ほどが満足いく仕上がりになった頃、ふと窓を見ると空はわずかに白んできていた。体がかたまっていることに気づき、信乃は外に出て大きく伸びをする。


 そのときだった。


 違和感のある影が全身に覆い被さり、弾かれるようにして信乃は頭上を見上げた。


「何、あれ」


 彼岸花のような朱。

 巨大な鳥が羽ばたいて去って行く。何かがはらりと川の水面へ落ちてきた。近づいて確認すると、大きな朱い羽根だった。

 さらさらとあっという間に流れていってしまう。


(まさか、朱ノ鳥あけのとり……?)


 絵柄ではあるが、信乃はその姿を知っていた。練り紅の蓋に描かれていた、陽ノ国の守護鳥。

 飛んできた方向は陽ノ国だ。

 何故、明け方に?

 ぞわり、と悪寒が信乃の背中を撫でた。

 身震いを払うため信乃は小川に両手を入れると、顔を洗う。


(……なにか、鳴いている?)


 地面近くに顔を置いたことにより気づいたもうひとつの違和感。立ちあがり、信乃は唾を飲みこむ。

 意を決して、小川沿いに下流へと足を進めた。


(なんだろう。息の荒い生き物……?)


 しかし猛っているというよりは、必死に呼吸をしているように聞こえる。

 遠目に見て判断すれば安全だろうと決めて歩いて行く。


 やがて視界に入った状況に、信乃は声を失った。

 川辺に倒れていたのは、傷だらけの白馬だったのだ。

 そして信乃はその馬の名前を知っていた。


「ハルっ……? あなた、どうしたの」


 慌てて信乃は駆け寄る。

 美しい毛並みの持ち主だった筈のハルには全身に火傷のような痕があるだけではなく、残酷にも矢が刺さっている。息も絶え絶えな状態であるのは明らかだ。

 声の主は、ハルだったのだ。

 信乃の心臓の鼓動が早鐘を打っていた。手が震える。


 ……そして。


 ……ハルの向こうで仰向けになって倒れている人間に、信乃は。

 気づいてしまった。


「……陽生さま……」


 陽ノ国第二王子、陽生。

 着ているものはしっかりと身を包む長袖の服で、丈は足元まである。所々裂けて、すり傷を負っている。

 ハルほどではないが火傷の痕も見られる。

 瞳は閉じているものの肩と胸は動いているので、息はあるようだ。しかし髪の毛もひどく乱れている。


「ちょ、ちょっと待っててください。今誰か呼んできます」


 慌てて信乃は館への道を走る。

 しかし大きな道に出てふと気づいてしまう。皆、朝まで宴をしているかもしれない。頼れる人間はいるのだろうか。それに、祝い事で盛り上がっているところに他国の血まみれになった人間なんて。

 唇が、全身が震える。

 頭のなかが混乱して、どうしていいか分からなくなる。


「どうしよう。どうしよう……」

「信乃さま?」


 するとよく知った声がした。

 瀬名せな紗来さくらが腕を組んでこちらに向かって歩いてきていたのだ。


「どうしたんですか? 大広間にはいないなと思っていましたが、血相変えて逆走してくるなんて」

「せ、瀬名さんっ、……」


 のんびりとした様子の瀬名とは対照的に、紗来は、信乃の目の前に立つと目線を合わせて両腕を優しく掴んできた。


「信乃さま。一緒に息を吸って吐いてください。さぁ、はい」


 少し落ち着きを取り戻せた信乃に、紗来が尋ねる。


「私たちで力になれることならお手伝いしますよ。どうされましたか?」

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