第三話 春~恥じぬように生きよ
兄の祝言
*
*
*
――信乃たちが
自分の部屋で信乃は鏡に映る、肩まで伸びた碧色の髪の両脇を手に取る。慣れた手つきで後ろに結うと簪をすっと差した。
少し顔を後ろに向けて、見栄えよくできているか確認する。
「よし。いい感じ」
そして顔へ
紅の色は少し淡く、缶の蓋に描かれているのは朱ノ鳥ではなく幾何学模様だ。
苦戦しつつもなんとか薄水色の色留袖に着替えて、慌てて部屋を出る。
(だいぶ時間がかかっちゃったけど、まだ始まらないよね?)
周囲にひとがいないのを確認してから急いで地下へと降りた。
地下牢で眠る母親は見る度に痩せこけていく。生きているか死んでいるか、信乃には分からない。
「先月、十七の誕生日に加工士となれた報告をしにきて以来ですね。なかなか来られなくてすみません、いろいろな支度に追われてしまっていて……。実は、今日、そのときお伝えした婚礼の儀なんです」
苦笑いを浮かべる。
「兄さまと、紗絢。紆余曲折がありすぎてどうなることやらと思いましたが、ようやくこの日を迎えることができました。兄さまは、母さまに晴れ姿を見てもらいたかったと朝まで嘆いていましたよ」
返事がなくても語りかける。
こんなに晴れ晴れしい日であるというのに、母の不在。
どうしようもないことであるというのは承知の上で、信乃も心底悲しんでいるのだ。
「また、報告しに来ますね」
頭を下げる。
母親の瞼が閉じられていることを確認して、溜息をつくと信乃は踵を返した。
すると。
ひゅーひゅーという、空気の音に混じって。かすかに人間の声。
「……おめでとうと、伝えてちょうだい……」
信乃は弾かれるように檻の前へ戻る。床に膝をつく。耳を澄ませて、なんとしてでも母の声を聞き取りたかった。
母親の顔が牢の外へ向き、瞳が、はっきりと娘を映している。
「か、母さま。意識が!」
正気の母親を見るのは何年ぶりのことだろうか。
信乃は気が動転して口をぱくぱくさせる。
「あなたも、大人に、なったわね。きれいに、なった。大丈夫、泣かないで。あなたのことは、あなたの想いが、導いて……くれる……」
しかしそれも一瞬のこと。母親の焦点は、すぐに信乃に合わなくなる。
(わたしの、想い……?)
ここで涙を流してしまったらせっかくの化粧が落ちてしまう。
上を向いて、信乃は溢れ出そうになる感情をぐっと堪えた。
*
信乃が大広間に着く頃には、大広間と中庭を使って婚礼の儀が今にも始まろうとしていた。
親族や間柄の深い者だけで大広間はいっぱいになってしまうので中庭にも席を設けたのだが、それでも国の民全員を招待できてはいない。この後、外に出て練り歩く予定にもなっている。
「お待たせしました」
上座で紋付き袴の似合う長老の隣に座ると、いつもの玉露とは違うものを飲んでいた。
「爺さま、それは?」
「桜茶という。婚礼の儀が始まる前にはこれを飲むのがしきたりとなっている」
覗きこむと、白湯に八重桜が浮かんでいる。
お手伝いさんが信乃にも同じものを淹れてくれたのでいただいてみると、桜の香りのなかに塩味が効いていた。
「しょ、しょっぱー!」
「桜の塩漬けだからしょっぱいのは当然だろう。
「うぇ……。こんなものがあるんですね」
中庭の奥では八重桜が満開となっている。桜と新緑の色は鮮やかに祝いの場を彩ってくれていた。
薄曇りで、
桜茶の味はさておき、信乃は今日に心から感謝する。
すると中庭にめかしこんだ信音と紗絢が寄り添って現れ、拍手に包まれた。
「この度は私と紗絢の晴れの日を祝っていただき、ありがとうございます。ささやかながら宴席を設けましたので、どうぞ皆さま心ゆくまでお楽しみください」
堂々とした信音の挨拶。
拍手と口笛とおめでとうという言葉で空間が沸きたつ。
ゆっくりと上座まで歩いてきた紗絢と視線が合い、信乃はにやりとする。
「おめでとう。めちゃくちゃきれいよ」
花嫁の白無垢は、雨を想起させる模様の織られた
中庭に咲く本物にも劣らない立派な花だ。
しっかりと化粧も施された紗絢は、普段の愛らしさとは違う優雅な美しさを身に纏っていた。
紗絢の夢。
初恋を成就させて信音と結婚すること。母のように短髪でいること。
どちらも、今日、叶うのだ。
紗絢からは自信が満ちあふれていた。そのことがさらに魅力を増しているのだろう。
「ありがとう、信乃」
乾杯の音頭をとるために長老がゆっくりと立ちあがった。
「さて、皆さま。各々、盃をお持ちください。信音と紗絢殿の輝かしい未来と、雨ノ国の恒久の平和を祝って、……乾杯!」
宴が始まると、賑わいは一層増していく。
隣の祖父に視線を遣ると、満足そうに場を見渡している。
「ささ、爺さま。こんなときぐらい、お酒でも」
「そうだな。せっかくだし、いただくとしようか」
おちょこに注がれた酒を飲み干し、祖父が息を吐き出す。
「これで夏の、信音の二十歳の誕生日に首長の位を譲れば雨ツ国も安泰だろう」
「爺さまったら。結びの言葉には早すぎます。長生きしてくださいね」
信乃は苦笑いで返した。
「そうだな。まだまだ、この泰平の世を満喫したいしな」
長老は目を細めて景色を見遣る。
泰平の世。
それが、いかに尊いことか……。
主役が国じゅうを練り歩いている最中も、館では宴会が続いていた。次期首長の婚礼の儀だからめでたさも格別なのだ。
宴は翌朝まで続くことだろう。
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