悔いのない道へ


 陽生と郁李、それから馬で帯同して丹生が訪れたのは、水ノ国みなのくにに近い街のひとつだ。

 国のなかでも貧しい者の割合が多く、陽生が足繁く通っては支援してきた地区でもある。


 馬車を降りて三人は街を歩く。

 因みに、丹生は陽生と郁李の後ろを無言でついていくのが、視察の常である。


 郁李は興味深そうに建物の赤煉瓦を見つめた。そっと触れると、少し咳き込んで言った。


「全体的に老朽化が進んでいますね。それに、埃っぽい」

「直す金がないんだ。なかなか予算を回せなくて苦心しているところではある」

「おっ、陽生さまじゃないか。久しぶりだねぇ!」


 そこへ現れた恰幅かっぷくのいい女性が、勢いよく陽生の背中を叩いた。

 丹生は咎めようともせず無表情で立っている。


「ごほっ。痛い痛い。全力で叩くなって言ってるだろう」

「すまないね。だって婚礼の儀以降、こっちへ来てくれなかっただろう? あたしらは、陽生さまは奥さまにぞっこんなんだって噂して……あれま。噂の奥さまじゃないか」


 引き気味になりながらも、郁李はおずおずと女性に頭を下げる。


「そうさ。郁李も国の現状を知りたいと言ってくれたから、連れてきたんだ」

「なんてこと! 陽ノ国の未来は明るいね。ようこそ郁李さま、ど田舎ですがご覧になってってくださいませ。あっ、あたしは食堂を切り盛りしてる者です。庶民の味はお口に合わないかもしれないですが、ご来店お待ちしております」


 女性は大量の食材を背負っている。仕入れの帰りだったらしい。

 豪快に笑い去って行く女性を見て、郁李はぽかんと口を開けた。それから少し怒ったように呟く。


「なんですか、今の者は。陽生さまは気軽に話しかけていい御方ではない筈なのに」

「いいんだよ。民の実情を知ってこそ、よき為政者となれるんだ。郁李こそいいのか? この先はほんとうの貧民街だぞ。無理なら引き返しても」

「……い、いいえ。わたくしも知りたいのです。この国のことを」


 気遣ったのがまずかっただろうか、郁李は強く返してきた。


「そうか。それなら、いいのだけど」


 路上で物乞いをしている者もいるし、言い争いをしている人間もいる。

 陽生はさりげなく郁李の手を取り、歩き始める。

 郁李の体が震えた。

 過剰に怯えさせないように配慮したつもりだったが、かえって、妻はこわがっているような気がした。


「……郁李?」

「いえ、なんでもありません」


 しばらくすると、急に草むらのなかに古びた集合住宅が見えてきた。

 身寄りのない子どもたちを集めた施設だ。勿論、世話役は陽生が任命した。

 陽生の姿を見つけるやいなや号令がかかったように子どもたちが集まってくる。陽生はしゃがむと目線を合わせ、ひとりひとりの頭を撫でる。


「この子たちは俺が名前をつけたんだ。時々、勉強も教えているんだ」


 愛の囁き方とか確実に勝てるけんかのやり方を、と説明すると、後ろで丹生がものすごい形相で陽生を睨んできた。


 郁李は陽生のあまりの気さくさに驚いた表情のままかたまっていたが、奮い立ち、陽生と同じようにしゃがむ。そして、子どもたちの話に耳を傾けたりして、彼女なりに努力しているようだった。

 食堂に寄って茶と菓子もいただいた。

 そこでも郁李は民の生活に触れようと努力しているように陽生の瞳には映った。

 妻は民にも歓迎されいるようで、視察は順調に終わった。

 陽生は胸を撫でおろす。

 しかし。


 帰りの馬車で、郁李がぽつりと零した。


「かわいそうな子どもたちでしたね。生まれてこなければ、あんなに貧しい暮らしをしなくてもよかったでしょうに……」


「……え?」


 陽生は愕然とする。

 郁李の瞳は悪意の欠片もなく澄んでいる。妻にとっては、子どもたちのことを心底憐れんでいる優しい言葉のつもりなのだ。

 急に陽生の手足が冷たくなっていく。


(だけど、違うんだ)

(今ここでおれが訂正しなければいけない)


 隣に座る郁李に体を向けて、陽生は、その両肩に手を置いた。それからまっすぐに妻を見つめる。

 はっきりとした口調で、伝えなければならなかった。


「郁李。それは違う。そんな優性思想を持ってはいけないよ。人間は、すべからく生きる権利を有しているんだ。どんな人間でも安心して生きていけるようにするのが我々の責務なんだ」

「も、申し訳ございません……」


 陽生の想いが伝わったのだろう。みるみるうちに郁李の顔が青ざめていく。

 富める側として生きてきた人間の思考としては多数派なのかもしれない。しかし、為政者いせいしゃとして、人間として……それは重大な欠落なのだ。


(どうしておれがそう言ったか、分かってもらえるようになるまで努力をしないといけないな)


 背もたれに体を預けて馬車の天井を仰ぐ。

 郁李は宮殿に戻るまで、俯いたまま声を発さなかった。



 夜。

 陽生は、第二執務室で、己の掌をじっと見つめていた。

 昼間繋いだ郁李の手。緊張することもなく、自然にできた。


 このまま、王が望むように、民が望むように、郁李のことは穏やかに愛していけるだろう。

 今日のように間違っていたら教えてやればいい。そして共に国を発展させていくことは、陽生が生まれてきた意味でもある。

 兄と違い、心身共に健康に生まれ育ってきた意味。

 兄の持てなかった、持つべきだったものを引き受けて生きてきた。迷いはなかった。


 それでも一度だけ、あまりの重責に堪えきれず、すべてを捨てたいという衝動に負けたことがある。

 己が消えてしまえばこの国はどうなってしまうのだろうと。

 すべてがどうでもいいと思ってしまったことがある。


 ——そこで、初めて心を震わせてくれるものに、出逢った。


 雨晶あまきらを取り出して、月明かりに照らす。

 気を抜くと、思い出してしまう。少年のような見た目で、感情がすぐ顔に出る破天荒な少女のことを。

 たったひとりしかいないのだ。

 躊躇ためらうのも、緊張するのも。


(この期に及んで最低だな、おれは。……だけど、諦める為に会いに行ったんだろう?)


 恋というものが雷のように激しいものだとしたら、愛というのは凪いだ海なのだろう。

 今の陽生に必要なものは、まさしく後者なのだ。


(もう悔いはない)


 雨晶をにして。


(おれは、おれのなすべきことをするだけだ……)


 一歩一歩、ゆっくりと。

 仄暗い廊下を歩いて。

 陽生は、闇へと消えていく。




          【挿話 了】

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