初恋の終わり


 数日後。

 陽ノ国から、帰ってきた後。

 常春の陽ノ国と、寒さの厳しい雨ツ国の差を、信乃は皮膚で感じていた。


(やっぱり、陽ノ国は暖かい国だったんだな)


 しっかりと上着を着込んで出かける。

 信音は温度差にやられたのか風邪を引いて寝こんでいるが、今のところ信乃は元気だった。

 信乃にはどうしても行かなければならない場所があった。

 それは紗絢の家。

 髪切士かみきりしの、家。


「おかえり、信乃」


 玄関に紗絢が待ち構えていた。

 両腕を組んで仁王立ちになっている。なのに、今にも泣き出しそうな顔をしていた。


「信乃は、ばかよ!」

「わたしもそう思う。だけどきっと、そういうものなんだよね」


 信乃が笑って答える。

 無理やりつくった表情に見えたのだろう。紗絢の瞳からぽろぽろと涙が零れた。

 そして紗絢は手を伸ばして信乃をぎゅっと抱きしめる。

 信乃は。

 紗絢の肩に、頭を預ける。


「……失恋、しちゃった」


 ふんわりとした紗絢の香りに、信乃は雨ツ国へ帰ってきたことを実感する。

 初めて口に出したことで。


 ――を、実感する。


「うん」

「好きだった」

「うん」

「最初はそんなんじゃなかったのに」

「……うん」

「気づいたら、好きだった」

「そういうもんよ」


 信乃は顔を上げる。

 重たく灰色の雲。まるで自分の今の心みたいだ、と思う。


「そういうもの、なのかなぁ」

「うん。信乃、きらきらしてたもの。たしかに恋をしていたのよ」


 こんなに胸が締めつけられるように苦しいのは、どうしてなのだろう。

 かんたんに終わらせてもらえないなんてひどい話だと、信乃は思う。


 そして、髪切りの間に案内された信乃は、清め布の上に正座する。

 紗来さくら瀬名せなを前にして頭を下げた。

 

 その宣言を、髪切士と髪結士にしなければならない。


 信乃は、儀式を受けに来たのだ。


「本日から髪を伸ばそうと思います」


 事情をどれだけ紗絢から聞いているかどうかは定かではないし、問うてはいけないのが決まりでもある。髪切士と髪結士の夫婦は顔を見合わせて深く頷いた。


「承知いたしました。それでは、私の方から髪飾りを贈らせていただきます。こちらをお受け取りください」


 瀬名が小さくて細長い桐箱を差し出す。


「謹んで賜ります」

「はい。どうか、信乃さまに、新しい世界が開けますように」

 受け取った信乃が箱を開けると、そこには硝子玉の飾りがついたかんざしが収められていた。硝子玉は透明で、中に彼岸花のように何本もの朱い線が踊っている。

 少女が髪を伸ばすと誓うとき、髪結士から、もっとも似合う髪飾りが渡される。


朱ノ鳥あけのとり、みたい)


 信乃は両手で恭しく簪を手に取る。

 新しい息吹の到来を、自らのなかに感じる。

 すると髪切りの間に紗絢が飛びこんでくる。紗来が止める間もなく、紗絢は信乃を抱きしめた。

 それから身を離して、親友同士額を合わせる。


「あたしが選んだの。信乃に、いちばん似合う髪飾り!」

「ありがとう。……ありがとう、紗絢」


 ようやく、信乃の頬にも涙が流れていく。

 一度堰を切ってしまったものはかんたんには止まらない。

 うれしくて、苦しくて、切なくて。

 それでも、うれしかった。

 だから、まだ、苦しい。

 咲かなかった恋の花は、蕾のまま萎れるのだろうか。

 それとも枯れてしまうのだろうか。

 まだ、信乃のなかには蕾がある。


(だけどこの苦しさを乗り越えないと、前に進めないんだ……)


 涙を流しながら、嗚咽を漏らしながらの、信乃の決意。

 こうして。

 信乃の初恋は、十六歳を迎える前に。

 想いを伝えることもなく。

 終わりを、告げたのだった――




          【第二話 了】

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