この恋を諦めるために
*
馬車の大きくて頑丈な窓から信乃が外を覗くと、そこには明るい世界が広がっていた。
(雲がかかっていないだけで、こんなにも空は青いんだ)
信乃にとっては驚きだった。
隣に座っている信音の顔は青ざめている。だいぶましになってきたものの、馬車酔いを起こしているのだ。げっそりしながらも感想を述べる。
「ほんとうに
霧深い
気候の暖かさに驚き、道の広さに驚き、街の喧騒に驚き。途中で泊まった街の大きさに驚き。とにかく衝撃を受けてばかりのふたりである。
馬車がゆっくりと止まり、御者が声をかけてくる。
「到着いたしました。こちらが陽ノ国の宮殿でございます。どうぞ気をつけてお降りください」
信乃と信音は口をぽかんと開けて目の前にそびえ立つ建物を見上げた。
そもそも門から宮殿までが遠かった。整備された庭や池はもはや大広場だ。
そして、高い柵に囲まれた中央には宮殿。朱を基調とした極彩色という表現がぴったりの色合い。雨ツ国の館とは比にならない豪奢さだ。
館の巨大な屋根を支える柱は太く立派で、外壁と組み合わせて見事な幾何学模様になっている。
「お疲れさまでございました。それでは、よき滞在を」
ふたりは荷物を抱えたまま、呆然とする。
「僕たちはほんとうに招待されてよかったんだろうか」
「それを言ったら元も子もないです、兄さま……」
御者から使用人に案内が交替されて、ふたりは宮殿へと入った。
見かける使用人も含めて全員、立ち襟で丈の長い黒服を着ている。
完璧に磨かれた長い廊下には真紅の細長い絨毯が敷かれていた。さらに廊下の壁には巨大で立派な肖像画が並んで飾られている。
「こちらは代々の国王さまの肖像画でございます。陽生さまのお父上、現国王さまはこちらです」
使用人が説明してくれた肖像画の人物は、陽生にとても似ていた。目尻の皺が穏やかな雰囲気を醸し出していた。
信乃は立ち止まってまじまじと見上げる。思わず笑みが零れた。
(陽生さまもお歳を取ったら、こんな感じになるのかな)
勿論、それを知ることは叶わないのだが。
「信乃、なにやってるんだ。置いてくぞ」
「はーい!」
信音に急かされて早足で追いつく。
そして、案内された部屋でふたりはおずおずと着替えた。
信音は紺色の黒紋付羽織袴。信乃は裾に季節折々の花々と雨の絵が入った薄水色の色留袖。どちらも五つ紋が入っている、雨ツ国の正装だ。
着替えると部屋の外で侍女が待ち構えていた。
会場の大広間へ案内してくれるのだと言う。
侍女もそうだが、すれ違う女性たちは全員が黒いワンピースに白いフリルエプロンをつけている。雨ツ国では見たことのない服装だった。
頭を下げられて、いちいち兄妹は慌ててお辞儀を返す。
そんな風にして挙動不審だった為、曲がり角で信乃は小太りの男性とぶつかってしまった。
「もっ、申し訳ありません……!」
ぶつかってしまった相手、黄褐色の肌と外側に尖った耳の中年男性がぎろりと信乃を睨みつけてきた。
脂の乗っていそうな大きな腹の所為でモーニングコートのボタンが今にも弾け飛びそうになっている。
どうひっくり返っても好意的には捉えられない偉そうな態度で放言する。
「なんだ、貴様たち? その髪と肌の色。……あぁ、そうか。雨ツ国の人間か。まったく、陽生殿の意向とはいえ、あんな里の奴らを招待するなんて」
最後の方はほぼ独り言だったものの、雨ツ国に対する悪意に満ちていた。
かちん。
信乃は思わず反論の言葉を口にする。
「ちょっと、ぶつかっただけでそんな言い方!」
「こら、信乃」
信音が宥めようとしたときだった。
「お父さま! 何をしていらっしゃるのですか!」
男の後ろから透明度の高い声が響いた。
現れた女性は、同じく黄褐色の肌と赤銅色の髪の持ち主。
長く腰元まである豊かな髪は艶めき、柘榴色の瞳は大きく、長い睫毛を相互に強調している。
刺繍により細かい宝石を散りばめられた白いロングドレスの裾を持ち上げてぱたぱたと駆け寄ってくると、申し訳なさそうに女性は信乃たちに深々と頭を下げた。
「すみません。父の無礼を代わりにお詫びいたします」
「……きれい……」
怒りを忘れて信乃は呟く。
信乃の言葉に、女性は柔らかな微笑みを浮かべた。
「雨ツ国の信音さまと信乃さまですね? わたくしは
郁李、という名前に反応して、信乃は固まる。
(このひとが……!)
とんでもなく美人だし、かばってくれた優しさもある。非の打ちどころなんてない陽ノ国随一の美女、という言葉を体現したような女性だ。
すると信音が頭を下げながら信乃の頭も己の手で無理やり下げさせた。
「申し訳ございません、こちらこそ妹が失礼しました。雨ツ国の信音と申します。この度はお招きいただきありがとうございます。そして、ご結婚おめでとうございます」
「し、信乃と申します。ご結婚、おめでとうございます」
「ありがとうございます。本日はどうぞ楽しんでいってくださいませ。さぁ、お父さま、行きますわよ」
郁李は繊細そうに見える腕で、大胆に父親を引っ張っていった。
「……とんでもない美人だな。さては陽生、面食いか……?」
信乃には信音の軽口へ返す気力が湧いてこなかった。
(椿の香りがする……)
陽生から贈られた練り紅だろうか。
そう考えてしまった途端、信乃の体温はすうっと下がっていく。
そして案内された大広間は、雨ツ国の館の何倍も広い空間。
末席に信音たちの席が用意されていた。
肩身も狭く着席して、信乃はきょろきょろと部屋を見渡す。
(さっきの肖像画の国王さまだ)
上座で微笑んでいる男性を見つけて、信乃は目を凝らした。絵画よりも実物の方が陽生に似ているようにも思える。国王と並んで談笑しているのは女王だろう。つまり陽生の母親。小柄で、優しそうだ。
信乃の知らない陽生の人生を、ここで、初めて見る。
彼は周りの人々に愛されているし、この結婚は祝福されているということを、知る。
理解する。
ぱちぱち……。
やがて列席者たちが一同に起立して拍手を送ると、陽生と郁李が腕を組んで上座に現れた。
陽生は髪を後ろに撫でつけた髪型で、着ているのは艶のある黒いモーニングコートだ。
華やかな新郎新婦の整った外見に、全員が惚れ惚れとしているのは信乃の目にも明らかだった。
陽生はきっと、無理を言って信音たちの参列をねじこんだに違いない。だからあの郁李の父親も居丈高な態度だったのだろう。
髪の色も瞳の色も違う兄妹は場において浮いていたし、豪華絢爛さに気圧されている信音は口数も少なくなっている。
今の信乃には、遠くの陽生を見ることが、苦しくもあり、切なくもあった。
だけど、目を逸らすことは、できない。
髪の色は燃えるような赤銅。
艶のある肌は淡い黄褐色で、耳の先がぴんと外側に尖っている。
少し吊り上がった奥二重の瞳の色は、まるで熟れた柘榴のように輝く。
そんな美丈夫のことを、見つめつづけている。
「信乃、どうした? 何か言ったか?」
「ううん。とんでもなくかっこいいな、と思って」
「……そうだな」
今は陽生の姿を見ているだけでしあわせなのだ。
心のなかで言い聞かせる。
(これが、ほんとうに最後だから)
もう二度と会うことはない。
だから、しっかりと目に焼きつけておこうと思う。
初めから分かっていたことだった。
ここに来てしまえば、どうしようもなく思い知らされてしまうのだと。
それでも。
信乃は、この想いを諦める為に、陽ノ国へやって来たのだ。
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