気づかないでいさせて
*
館に戻ると、信乃と紗絢は、お互いの顔が涙の跡で瞳が真っ赤に腫れているのを見て、苦笑いの後に抱きしめ合った。
そのまま紗絢は晩ご飯を食べて泊まることになり、信乃の部屋に布団を並べる。
「ありがとう、信乃」
それぞれ布団にもぐり、隙間からふたりは手を繋ぐ。
「わたしこそ。ほんとうによかった」
「ふふふ。完全勝利よ」
勝利だったのか? と問いたかったけれど、見ていたことは口が裂けても言えない。
一方で陽生に手を繋がれたことや抱きしめられたことを言ってしまうべきか逡巡する。
(いや、無理! 思い出すだけで恥ずかしいのに、言葉になんて出せない!)
「信乃、なに布団のなかでじたばたしてるの」
「ううん。なんでもない、ははは」
すると紗絢が眉を
「なんか変な音が聞こえない?」
「え?」
ふたりは寝間着の上にしっかりと半纏を着込んで、縁側へ降りて行く。
そして絶句した。
月明かりに照らされていたのは、中庭に仰向けになっている陽生と、縁側に立つ信音。
「信音さまっ?」
「よ、陽生さま!」
慌てて信乃は中庭に降りる。陽生の右頬が僅かに腫れていた。
「大丈夫ですか? 今、手当てを」
「慌てなくていいよ、信乃」
平然とした様子で陽生が起き上がり、信乃を制する。
信音が気まずそうに口元を手で覆う。
「というかふたりともなんで起きているんだ」
「兄さまこそ、一体何をしているんですか!」
「おれが言ったんだ。信音を殴ってしまったから、おれのことも殴ってくれ、って」
信乃は何を言っているんだ? と
兄の傍らで紗絢も信乃と全く同じ表情をしている。
「だけど、明日帰るというのに頬に跡を残したら、それこそ外交問題に発展するのでは」
「問題ないよ、信乃。雨薬をたっぷり用意してあるから、どれだけ陽生の頬が腫れても骨が折れたとしても、たちどころに治るさ」
「……骨はすぐには治らないんじゃ」
信乃は心底あきれ果てて声を出す。
「信音さま。あたしたちが見にこなければ、もしかして延々と殴り合いを続けるつもりだったんじゃないでしょうね」
「流石にそこまではしないさ。ただ、陽生に剣舞を見せてもらう話にはなっていたから、ついでに紗絢たちも見ていくかい」
「剣舞?」
「そう。刀を手に舞うというのが、陽ノ国では武芸のひとつなんだ」
どうやら、雨刀を披露してくれるようだ。
信乃と紗絢、信音は縁側に座った。
ふと信乃が横を見遣ると、紗絢は静かに、信音の肩に頭を預けていた。
慌てて視線を陽生に戻す。
中庭に立つ陽生が三人に向けて深く一礼をする。
すらり、と陽生が鞘から雨刀を抜き放った。
月と雪の光を受けて、刀身が美しく輝く。それは地底湖と同じ光。
雨刀を構え、縦に大きく一振り。空気の裂かれる音。それから、横に一凪ぎ。大胆かつ優雅に舞う雨刀はもはや陽生の一部となっていた。
剣舞だというのにまるで相手がいるかのよう。
だとしたら清めの刀に斬られるのはさしずめ
刀を使った舞だけではなく、軽やかな足取りで跳んだり、拳による突きや足を高く上げてからの蹴りも含まれ、広い筈の中庭が陽生にとっての少し狭い舞台と変わっていた。
開始位置に戻ってきた陽生は再び雨刀に光を浴びせ、鞘に収めた。そして最後に一礼。
「陽生さま、すごーい!」
紗絢の感嘆と信音の拍手に、信乃は我に返る。
信乃は陽生の姿に、完全に見とれていた。
空間を支配する様は、これまで見てきたどの姿とも違う新たな一面。しなやかで、強く、……。
「ありがとう」
陽生の額にはわずかに汗が滲んでいる。
小走りで縁側に寄ってくると、固まったままでいる信乃に向かって微笑んだ。
「どうだった、信乃?」
「……う」
「う?」
「美しかった、です」
それが精一杯の返答だった。
しなやかで、強く、美しい。
「よかった。見てもらえると思っていなかったから」
はにかむ陽生の表情は先ほどまでとはまるで別人のようだった。
陽生は信音に向かって頭を下げた。
「あらためて、すばらしい雨刀をありがとう」
「いや、こちらとしてはもう馴染んでいるのが驚きでしかない。打ててよかった」
陽生と信音が顔を見合わせて笑う。
信乃にとってはさっぱり理解できないが、殴り合った結果、ふたりの間には確固たる友情が完成したらしい。
そして陽生は信乃の隣に座ると、空を見上げた。
「秋頃にここを訪れたときにはこうなるなんて思わなかった」
自嘲気味に笑みを零す。
「おれは兄上の代わりに
信乃はどう言葉をかけていいか考えあぐねたが、陽生はあっけらかんとしていた。
「雨晶を見て、ああ、これに出合う為におれはここへ来たんだ、って直感した。おれの直感は当たると評判なんだぜ。結果として雨刀と、最高の友人も手に入れることができた」
だからあんなに雨晶に執着したのか、と信乃は納得する。
口の達者さには呆れたけれど、
月が段々と雲に隠されていく。
陽生の表情に陰がかかる。
「だけど、いちばん欲しいものは手に入らない」
「いちばん欲しいもの……?」
「さぁ、何だろうな」
陽生は立ちあがって、寝間着の裾をはたいて整える。
「殴られもしたし、剣舞も披露できたし、もう寝ようか。信音、すまないが雨薬をいただけないか。なんだか頬が痛い」
「そうだな。朝も早いし、雨薬を渡したら僕も寝ることにするよ」
信音も立ちあがるので、信乃と紗絢も続く。
「ふたりも部屋に戻りなさい」
「はい。ありがとうございます、信音さま。おやすみなさい」
ふと、視線を感じて信乃が顔を向けると、陽生が信乃のことを静かに見つめていた。
「おやすみ」
「……おやすみ、なさい」
(今、おやすみと言ってくれたのは、
部屋に戻るとすぐに信乃と紗絢は布団にもぐり込んだ。
すっかり冷えていたことを体が急に思い出す。
「あのね、信乃。もしかして」
紗絢が囁く。
何を言いたいのか信乃には分かっていた。
「ちょっと。なんて顔してるの」
「ごめん。もう少しだけ、気づかないでいさせて」
「……ごめん。でも、……ううん。何でもない。話せるときが来たら全部話して。親友として、約束よ」
「うん。ありがとう。大好き、紗絢」
「あたしも大好きよ。おやすみなさい」
信乃は真っ暗な天井を見上げる。
思い浮かべるのは、陽生の舞う姿。
(なんだか、ふわふわする)
陽生のことを考えると、からだの中心から隅々まで、感じたことのない力が漲ってくるようだった。
瞳を開けると、暗闇にいるのに、自らの輪郭が光っているように思えた。
(……きらきらしてる、みたい)
あんなに心を乱されっぱなしだったのに、今の信乃には、なんだかそれも悪くないと思えるようになっていた。
(あと、ちょっとだけだから、いいよね)
瑞々しい感覚に包まれながら。
微笑みを浮かべて。
今度こそしっかりと、信乃は瞳を閉じる。
気づいていないふりをしても。
否応なく、自覚させられてしまう。
(わたしは、陽生さまのことが、好きなんだ……)
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