恋の花が咲く瞬間


 信乃は考える。

 今、紗絢はいったいどんな表情をしているのだろう、と。

 想像がつかないのは、きっと、信乃が見たことのない顔だからかもしれない。

 苦しくて、せつないのに、止まることのできない感情を詰めこんで。

 信乃が知らないのに、知っている、感情――。

 息を呑む。一挙手一投足、見逃してはいけないと思った。

 そして。

 信音も、紗絢も、もう理解しているのだろう。

 お互いの想いを。


「お願いです。ずるくない信音さまを、見せてください」


 もはやふたりの間を阻むものは、雪しかないのだ。


「……わかった。降参だ」


 信音が軽く両手を挙げて、掌を紗絢へ向ける。それから、一歩ずつ、紗絢に近づく。


「信音さま……?」


 ふたりの間にはもうわずかな距離しかない。

 信音が紗絢の背中に両腕を回すと、一気に抱き寄せる。その距離さえもなくなって。突然のことに驚いたのか、紗絢の両腕は力なく下がる。

 紗絢の頭の上に、信音は顔をうずめた。


「好きだよ、紗絢。ここで君を守ったときから、僕にとっての姫は君だけなんだ」

「そんな……そんなこと」

「君のことを一生かけて守りたい。だけど、もし僕が間違った道に進もうとしたら、全力で止めてほしい。いいかな」


 紗絢は答える代わりに、まず、しっかりと信音を抱きしめ返す。


「……もちろんです。あたしがどれだけ、信音さまのことを好きか、ご存知でしょう?」

「そうだね」


 信音が少し紗絢から体を離す。

 ふと、紗絢が信音を見上げた。そのまま信音が右手を紗絢の頬に添えて、自らの唇を重ねる。


「僕がどれだけ君のことを好きかは、これから教えてあげよう」


 いつの間にか雪は止んでいた。

 紗絢の顔が真っ赤になっているのは、隠れて見ていても明らかだ。


(花が、咲いたみたい)


 名を付けるならば、恋の花。

 鮮やかで大きい。

 恋が実るというのは、きっとそういうことなのだろう。

 芽が出て、育ち。

 苦しい時期を乗り越えて開いた花は、美しい。

 大輪の花が開いた瞬間を、たしかに信乃は目撃したのだ。

 信乃の頬を一筋の雫が伝う。

 すると、紗絢が何故だか観念したように俯いた。


「……参りました。あたしの方が、降参です」

「そう? じゃあ、勝利記念にもう一回」

「……!」


 雪が止んで視界もよくなってきたし、これ以上見るのはやめておこう、と陽生が小声で促す。

 信乃は赤面したまま何度も頷く。


「もう、大丈夫そうだな」

「そうですね」


 もはや、恥ずかしくて見続けることはできなかった。見ていたことも言えないだろう。

 手を繋いだまま、足音を立てないように信乃と陽生はその場からそっと離れた。

 しばらく雪道を歩いて行き、なんとか声を出せるようになって、信乃は陽生を見上げた。


「あの、手……」

「誰も見ていないし、減るものじゃないからいいだろう? 離したら寒いんだ」

「減りますよ」

「何が?」

「わたしの、寿命が」


 陽生はきょとん、としてから、突然笑いをかみ殺す。


「どうして笑うんですか」

「すまない」


 うれしそうにしながらも、陽生は眉を下げた。


「しかし、勢いあまって殴ってしまった。外交問題に発展してしまうだろうか」


 わざとらしく真面目に言うので、信乃は吹き出してしまった。

 ようやく緊張も和らいできた。


「事の顛末を考えればそんなことはないと思いますが。……わたしとしては、むしろ感謝しています。兄はずっとのほほんとした感じで何を考えているかさっぱり分からなかったので」


 信乃はほんの少し躊躇ってから言葉を継いだ。


「……父は、『雨薬あまぐすり』の加工士の一族でした。首長の娘である母とは学び舎で同級だったそうです。とても聡明で人望の厚いひとでした。母と結婚するにあたって、誰も反対しなかったそうです。母が『雨刀』の加工士だった為に、ちょうどいい、と歓迎されていたようです」


 他国の人間に話してはいけないことだというのは、承知している。

 それでも陽生なら大丈夫だろうと何故だか信乃は思った。


「信乃。無理に話さなくてもいいんだよ」

「いえ。わたしが、聞いてほしいので。忘れてもらってかまいません。雨薬の加工士としても優秀だった父は、雨薬を安定して四大国へ供給することを提案しました。当時、四大国では疫病が流行っていたそうです。雨薬で治せない病はほとんどありません。既に他国へ輸出している雨晶や雨刀とちがって、薬は雨ツ国でしか使われていません。ここで販路を安定させれば、雨ツ国の力は確かなものとなる。父は、そう主張していたそうです」


 そして、助かる命がたくさんあるのだと、父は信乃に向けて熱く語ってくれたものだ。

 大人たちの話し合いはいつも夜だった。

 子どもたちは二階の居室にとじこめられた。だけど、響いてくる怒号は隠せやしなかった。


「雨ツ国はたまたま条件が重なって、四大国から侵略されずに自治を認められている里にすぎないのは陽生さまの方がご存知だと思います。雨晶あまきら雨刀あがたなも、他国では高級品かつ嗜好品です。父は将来の為に国の地位を確固たるものにしたかったんだと思います。だけど、閉鎖的なこの国で賛同する者はいませんでした」


 今日のような、雪の降る日だったことを、信乃ははっきりと覚えている。

 父親がたくさんの荷物を背負っていた姿を。


「父は強硬手段に出ました。雨薬あまぐすりを大量に持って国の外へ出ようとしました。先に実績をつくろうとしたのです。そして捕らえられて、処分について話し合われたそうです」


 信乃が五歳のときだった。

 どれだけ隠されていても、恐ろしいことが起きるのだと子ども心に理解して震えていた。


「最終的な決定を下したのは祖父、長老です。けじめとして。民の前で。納得させる為に。『雨刀』の加工士であり、使い手でもある母に、己の雨刀で父を殺せと、……」


 それ以上言葉にすることはできなかった。

 どのように死んだのかは知らない。もちろん父の葬儀はなかった。

 最初からいない存在だということになって。父の一族もどうなったのか分からない。しかし、祖父は孫たちに雨薬の加工士となる権利を与えなかった。

 やがて、緩やかに母は狂っていった。


「だからといって祖父を、国のひとたちを恨む気持ちは持てませんでした。わたしたちに対しては愛情をたっぷりかけて育ててくれたから。それは、……それはほんとうです」


 瀬名たちが、紗絢と信音の関係を心配した理由だって分かる。

 少しの綻びが破滅を招くことを、雨ツ国の人々は知っている。

 ただ、いないものだとされても、消せないのだ。

 父親も。

 母親も。楽しかった感情も。家族と過ごした穏やかな記憶も。

 そっと陽生が信乃の瞳から零れた雫を掬う。


「これまで、よく運命に負けずに生きてきてくれたな」


 陽生の低いけれど強い声が信乃のなかへ、緩やかに降りてくる。

 そんな言葉をかけられたのは初めてだった。

 心の内の、黒い染みが薄らいでいくようだった。

 言葉が涙の堰を切る。

 信乃の涙が止まらなくなると、陽生は信乃を抱きしめてくる。


(……あたたかい)


 紗絢に抱きしめられるのとは違う感覚に包まれて、信乃は瞳を閉じる。

 陽生が信乃のことを労ってくれているのが伝わってくる、強いのに優しい力。

 ここ数日で生じたさまざまな心の重たさが、嘘のように消えて軽くなっていく。心地よくて、いつまでもこうしていたいと思えるほどだ。

 瞳を閉じたまま、信乃は陽生に体重を預ける。

 そして、陽生は、信乃の涙が止まるまで抱きしめながら頭を撫でてくれたのだった。

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