想い合っていたふたり


「それに、もうひとりの妹としてしか見られないと言うなら、どうしてそんな泣きそうな顔をしているんだ?」


 陽生の指摘に、弾かれるようにようやく信乃は兄の顔を見た。そして息を呑む。


(こんな兄さま、初めて見た)


 信乃にとって信音とは、いつも冷静で、穏やかで、他人のことを優先して考えるような人間だ。

 今の兄は、発言とはちぐはぐに、眉を下げて瞳を潤ませている。


「ずっと心地いい湯に浸かっているような気分でいたんだろうな、僕は。あらためて言葉にされて、どう返していいのか分からなくなったんだ」

「何故」

「これは、聞かなかったことにしてほしいのだけど。僕たちの母親は、。そして最終的に精神を病んだ。僕は結婚というものを恐れている。愛とはいつか壊れてしまうものなのかもしれないと怯えている」


 陽生の瞳が驚きで見開かれる。

 信乃は泣きそうになるのを堪えるしかなかった。こんなかたちで兄の本心は聞きたくなかった。


「……僕の所為で紗絢に辛い想いをさせたくはないんだ」


 どさっ!


 突然、信音が中庭に吹っ飛んで背中から雪に埋もれる。右頬を押さえて縁側を見上げる表情は呆気にとられていた。

 信乃が視線を逸らした一瞬のうちに、陽生が殴り飛ばしたようだった。


「それがなんだ! 今の君の言葉がすべてじゃないのか? なにを臆病になっているんだ。傷口を縫い止めたいなら、今すぐ追いかけるべきだ」


 熱のこもった陽生の声は明らかに芝居を忘れている。

 一方で。

 己に降り積もる雪を、信音は払おうとしない。目を見開いて、しっかりと陽生の言葉を受け止めているようだった。

 雪がどんどん大きくなっていき、視界を遮るまでになる。

 こんな降雪は年に一度あるかないかのことだ。


 ――そのなかで。


 信乃は、信音がゆっくりと、しっかりと立ちあがる様を、目にした。

 言葉を発さず、紗絢と同じように信乃の脇を走って行く。

 まるでひとつの熱が通り過ぎていくようだった。

 走り去って行く信音を見送ってから、陽生がぽつりと零す。


「……愛を選ぶのは、国を背負っているおれにはできないことだ。その選択肢がある君を羨ましく思うよ、信音」


 不意に信乃は、瀬名の言葉を思い出す。


『今度の婚姻によって国は盤石の構えを取ることができるだろうっていう話さ』

『第二王子とはまだ一度しか接見されていないそうだ。それなのにすぐ結婚が決まっているなんて』

『大国こそ、結婚はまつりごとの為にあるんだから』 


 陽生も陽生で、友人に対して思うところがあるのだろう。一瞬だけ泣きそうになったものの、勢いよく庭に降りる。


「すまない、丹生。留守を頼む」

「……仕方ありませんね」


 丹生の嫌々ながらの了承を得た陽生は、今から信音を追いかけるようだ。

 信乃の隣に並ぶので、不意をつかれて心臓が大きく跳ねた。


「大事な友人だ。けしかけたからには万が一のときの後始末もしないとな」

「それならわたしもっ」


 結果として紗絢を焚きつけたのは信乃だ。

 にっ、と陽生が笑う。


「よし、行こうか。心当たりはあるかい?」


 館の敷地から出て、信乃は考える。

 恋をしている、紗絢。親友の気持ちをなぞると、答えはひとつしか浮かばなかった。


「……山の、なか?」

「え?」

「案内します。ついてきてください」


 信乃は、迷わずに躊躇わずに、走りだす。


 そして。


 信乃の予想は的中した。

 消えかかってはいたが、山の入り口に雪を踏んだ足跡が残されていたのだ。走っていったような小さなものと、確かめるように 信乃と陽生は足跡を辿っていくと、木々に囲まれた広めの空間が視界に入ってきた。

 そこで、距離はあるものの、信音と紗絢が向かい合っていた。


「いた!」


 飛び出そうとする信乃の右腕が強い力で後ろに引っ張られた。


「まずはきちんとふたりで話をさせてあげよう」


 ふたりを見守りながらも、陽生の声は静かに力強く、掴んでくる左手は大きく温かい。

 血の巡りが止まって、心臓が壊れるのではないか。

 信乃の胸中はそんな気持ちでいっぱいになる。


「……どうしてここにいるって分かったんですか」


 紗絢が口を開いた。

 信乃は、視線をふたりに戻す。


「紗絢のことならだいたいのことは分かるさ。毎日髪の毛につける香油を変えていることも、あまじょっぱいものが大好物であることも」


 信音の声はまだ暗さを滲ませている。

 躊躇うようにしながらも、信音が大きな歩幅で、一歩進む。


「一生を添い遂げたいと言われたとき、ずるいと思ったんだ。だけど、落ち着いて考えてみたら、ずるいのは僕の方だった。このまま、大きな変化もなく、僕は、君の好意に緩やかに甘えていたかったんだ」


 後を追っている大きなもののふたつ。

 染みのように信乃にも落ちた、『幸せでしたか』という問いかけ。

 そのほんとうの意味を、信乃はようやく知る。


(兄さまは、恐れていたのですね……紗絢を想うあまりに)


 すっ。


 不意に、陽生の左手が信乃の右手へ降りてきて、手を繋がれる。骨ばった、大きな大きな掌。優しく包みこんできたかと思えば、しっかりと繋がれてしまった。

 気がつけばぴったりと腕も接してしまっている。

 信乃は信音と紗絢を見守っていたいのに、それどころじゃなくなりそうになる。


「ちょっ」


 文句を言おうと陽生を見上げると、陽生が右手の人差し指を自分の口元に当てた。黙って見てろ、ということか。

 諦めて信乃は視線を紗絢たちに戻す。

 紗絢が静かに叫ぶ。


「ひどい。その言葉も、結局ずるいままじゃないですか」

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