婚約者の人となり

 気の強い母娘どうしがしょっちゅう言い争いをしていることは、幼なじみとしてよく知っている。しかしあんな泣き顔は、めったに見たことがない。


「信音さまが加工士となられたでしょう? ということはいつ首長となられてもおかしくないのだから、いい加減に諦めなさいと言ったの」


 信乃は、自らの心臓の音が大きく響くような気がした。

 含む意味の重たさは鉛のようにのしかかる。


「いくら幼い頃から知っているとはいえ、どれだけ想いが強いとはいえ。髪切士の家と首長の家では身分が違いすぎるもの。信乃さまと親友でいることとは、訳が違うわ」

「だけど」


 紗来がどんな表情で話しているのか信乃には見えない。


「紗絢にとって、紗来さんの短髪は憧れなんだそうですよ」

「……信乃さま。切れましたよ」


 言葉を敢えて遮るように紗来が告げた。

 紗来が信乃に手鏡を持たせる。切り揃えられた髪の毛。


「奥に温かい飲み物を用意しておりますので、どうぞお召し上がりください」

「……ありがとうございます」


 信乃は立ちあがり、頭を下げると客間へ向かう。

 失礼します、と声をかけてからふすまを開けると、背の低く小太りの男性が、糸目でにこにことしながら待っていた。

 紗絢の父であり、紗来の夫、瀬名せなだ。

 そして彼は髪結士でもある。少女が髪を伸ばすことを決めるときに欠かせない存在。

 髪切士と髪結士は、この国において対をなす。


「信乃さま、お疲れさまでした」

「ありがとうございます。いただきます」


 温かい焙じ茶を口にしながら、信乃は、ちらりと瀬名を見た。


「あの、紗絢のこと」

「あぁ。信乃さまにはお恥ずかしいところを見せてしまいましたね」


「瀬名さんも、紗来さんと同じように考えているんですか?」

「どうでしょう。ただ、我がには、幸せになってほしいとは思いますよ」


 座卓の上に置かれた菓子をつまみながら、瀬名は続けた。


「あの子がどれだけ信音さまに焦がれているかは知っています。しかし、身分違いというのは事実です。位が違えば、やがて苦労は肥大化していき、精神も疲弊していきます。わたくし共は、紗絢を悲しませたくないのです」

「それにうちの子が信音さまを好きだというのは周知の事実だけど、信音さまがどう思ってるかは分からないからね」


 片づけを終えた紗来が入ってくる。


「……言われてみれば」


 信乃は数日前に初めて、赤面したり瞳を潤ませている親友を認識したくらいである。

 そしてそんな信乃は、信音が紗絢のことをどう思っているか聞いたこともなければ、そんなそぶりを見たこともなかった。


「それよりもあたしたちは信乃さまのことが心配よ。きちんとしたお相手を見つけてね」

「ぶっ」


 突然話を振られて信乃は焙じ茶を噴き出しかける。


「ど、どうなんでしょうねぇ。ははは」

「そういえば、陽ノ国の第二王子さまが滞在中なのでしょう? 身分差も大きくないし、どう?」


 つきん。胸の奥が痛んだような気がして、信乃は湯呑みを持ち直す。


「紗来さん。第二王子さまは来月婚礼の儀を控えている御方だよ」


 瀬名が妻をたしなめる。

 信乃にとっては秋頃に紗絢から耳にした話でもあった。


「そうなの? 残念ね」

「かの国は第一王子がご病弱で、実質、国王の補佐をしているのが第二王子なんだよ。だから、第一王子に万が一のことが起きたとしても、今度の婚姻によって国は盤石の構えを取ることができるだろうっていう話さ。お相手の郁李いくりさまは、陽ノ国の地方を治める諸豪族のなかで最も力のある華衣かえ一族の長女だ。大国こそ、結婚はまつりごとの為にあるんだから」


 髪結士というのは、髪飾りに合う装飾品を求めて諸国を訪ねることも仕事のひとつだ。そのときにいろいろな情報を仕入れては、長老に報告しているという。

 しかし、信乃には初めて耳にする話ばかりだった。


(政の為……)


 陽生は、信音と信乃を婚礼の儀に招待したいと言った。

 しかし。

 信乃は、あんなに飄々としている陽生が内に抱えている事情など考えたこともなかった。


「あの。郁李さまというのは、どんな御方なんですか?」

「陽ノ国随一の美女と謳われている御方だよ。それだけでなく、文武両道との呼び声も高い。高名なでもあるそうなんだ。僕もかつて一瞬だけお目にかかったことがあるけれど、豪族とは思えない穏やかな雰囲気を纏っておられた。ただ、第二王子とはまだ一度しか接見されていないそうだ。それなのにすぐ結婚が決まっているなんて、大変な話さ」


 信乃は、なるほど、と相づちを打つのが精一杯だった。

 胸のつかえをごまかすように焙じ茶を飲み干す。

 一方であまり興味のなさそうに両腕を組んでいるのは紗来だ。


「へぇ。随一の美女ねぇ」

「陽ノ国の美女よりも、僕にとっては紗来さんが世界一の女性だよ」

「やだ、瀬名さんったら!」


 夫婦の惚気が始まりそうなので慌てて信乃は立ちあがる。

 このふたりは初恋成就だけではなく、未だに夫婦仲のいいことで有名なのだ。


「ごちそうさまでした。また来月お願いしますっ」


 そそくさと退散する。

 玄関で草履に足を入れようとしたところで、ひとの気配に気づいて顔を上げる。

 すると、家の前に、目を真っ赤にした紗絢が俯いて立っていた。


「……紗絢……」


 紗絢は唇を噛み、これ以上涙を零さないように堪えていた。

 そっと紗絢の両手を信乃は包みこんだ。紗絢はずっと外にいたのだろう、すっかり冷え切っていた。鼻先も真っ赤に染まっている。

 信乃が振り返ると、夫妻もまた、扉の前に寄り添って立っていた。

 紗来は眉をつり上げて唇を結んで、瀬名は心配そうに眉を下げて。


「すみません。ちょっと、紗絢を借りて行きます」

「信乃さま。でしたらこれをお持ちになって」


 紗来が信乃の手に、小さな包みを握らせる。

 こっそりと耳打ちして、顔を離した紗来は、瀬名と同じ表情に変わっている。


「紗絢の好きなおやつです」

「ありがとうございます。いただきます」


 左手で包みを持ち、右手を紗絢と繋ぐと、信乃は紗絢を連れて歩き出した。

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