婚礼の儀への招待

 全員が言葉を発するのを止める。

 そして、信音と陽生が朱い橋をゆっくりと渡り始めた。


 ちりん。

 ちりん。


 陽生は一歩前へ進むごとに、大きな鈴を鳴らす。

 軽やかな音色だ。鈴の音に呼応して、湖に、緩やかに波紋が広がる。

 水が呼吸をしているように、広がっていく。

 さらに応じるように信音も進んで行く。両の掌で、陽生の為に打たれた雨刀を持ちながら。

 同時に小礼拝堂に辿り着く。

 向かい合ったふたりが深く頭を下げた後、信音が声を張った。


『天にいまします我らの糸を編むものよ、我らの始まりを織った力よ。

 その力を以て、天は我らにを与えたもうた。

 我らはその間に雨を見出した。

 そして、我らはふたつを繋ぐものとして、雨をと唱えた。

 今、我、すなわち雨ツ国の信音は、このメグミを祈りとし、起点とし、新たな糸を染めんとす。

 贈り手の名は、陽ノ国の陽生。

 天よ、これを認め、我らに与え給え』


 それは、祝詞のりとの一種。ゆっくりと、一動作ずつ丁寧に、雨刀と鈴を交換する。


 ――世界には雨刀の為の存在しか許されていないような、静謐な時間と美しい空間。


 天からの恵み。

 雨。

 水こそ、生命のはじまり。

 みなもと。

 加工士によってかたちを得た『雨』は、こうして、天から人間へと授けられる……。


 帰り道、鈴を鳴らすのは信音。

 やがてふたりが信乃たちのところへ戻ってくると、真っ先に丹生が陽生に駆け寄ってかしずいた。


「おめでとうございます、陽生さま」

「あ、あぁ」


 少し呆けた表情から、我に返って陽生が頷く。

 その手にはしっかりと一本の打刀が握られていた。柄には陽生の瞳と同じ柘榴色が巻かれている。漆黒の鞘に収まっている刀身は雨刀なので、薄水色をしているだろう。


「これは……経験してみないと分からないものだな」

「そのようにおっしゃっていただけて光栄です。実は、僕にとっても初めての儀式でした」


 険悪な雰囲気があったことが嘘のように、陽生と信音は顔を見合わせて微笑んだ。

 信乃は、呼吸を忘れて見入っていた。ようやく息を吐き出すと、瞳はらんらんと輝く。自分でも気づかぬ内に拳をきつく握りしめていた。息も荒く信音へ宣言する。


「わたしも、早く一人前の加工士になりたいです。ううん、なります!」

「いい心がけだ。連れてきてよかった」


 信音が嬉しそうに信乃の頭を撫でた。


「信乃なら稀代の加工士となれるさ」

「はい。精進します」

「……おれも、がんばらないとな」


 兄妹のやり取りを眺めながら呟くと、陽生は腰元へ厳かに雨刀を収める。

 深呼吸をして、信音と信乃に向かって頭を下げた。


「ひと月後、私は婚礼の儀を行うことになっている。信音殿、信乃殿。あなたたちを雨ツ国の友人として招きたい」


 柘榴色の双眸に迷いや翳りはない。


「今回訪問したもうひとつの理由は、直接招待したいという気持ちがあったからなんだ」


 そこには、毅然とした姿の、陽ノ国第二王子が立っていた。



「いってまいります」


 翌朝。

 信乃が館を出ると雪がはらはらと舞っていた。空は晴れているのでこの風花はすぐに止むだろう。

 今日は信乃にとって、髪切士のもとへ行くと定められた日。

 故に、陽生の世話役から一時的に解放される。

 はぁ、と信乃は何度目かの溜息をつく。胸の辺りになにかつかえたような感覚が昨日から取れないでいる。


(兄さまも丹生さまも、ひとのことを勝手に決めつけすぎなんだから!)


 勝手に心配したり敵視しないでほしい。陽生は信乃をからかっているだけにすぎないのに。現にひと月後、陽生は結婚するという。

 前者について考えるとむかむかして、後者について考え出すともやもやするのだった。


(髪を切っていただいた後に、紗絢に愚痴を聞いてもらおう……)


 髪切士の家は紗絢の家でもある。

 風花の舞うなか信乃が目的地に到着すると、耳をつんざくような怒声が響いた。


「母さまなんて大っ嫌い!」


 そして勢いよく飛び出してきたのは紗絢。信乃に気づかず、思いきりぶつかる。


「紗絢っ?」


 驚いて信乃が紗絢の顔を見ると、瞳が真っ赤に腫れている。泣き腫らした跡なのは明白だった。


「ちょっと、どうしたの」


 ところが紗絢は信乃の言葉へ答えず、どこかへ走り去ってしまった。

 呆気にとられていると玄関から声がした。


「ごめんなさいね。ただの母娘喧嘩よ」


 すらりとした女性は、碧色の短髪。丸眼鏡の下の少しつり目は翡翠色。薄水色の小袖を着て、両腕を組んでいる。口元のほくろが特徴の、紗絢の母、紗来さくらだ。


「おはようございます、紗来さん。追いかけなくていいんですか?」

「これから信乃さまの大事な髪切りの時間ですから。それに、どうせすぐ戻ってきます」


 すぐ戻ってくる気配はなさそうだったものの、促されて信乃は家のなかに入る。程よく暖められた室内に、ようやく自分のからだが冷えきっていることを認識する。

 雨ツ国の少女たちにとって髪を短く切り揃えるのは毎月決まった神聖な行事だ。

 髪を切る為の部屋。信乃が清め布の上で正座して待っていると、白装束を纏った紗来が現れた。


「宜しくお願いします」


 すっ、と髪切士は信乃の後ろに膝をつく。


「失礼いたします」


 しゃき。しゃき。


 ひと月で伸びる長さは限られている。それでも髪の毛を切られる度に、少女たちはその期間で起きたことを真摯に受け止めることができるのだと言われている。

 信乃は瞳を閉じる。

 真摯に受け止めたいことは、今、ひとつだけだ。


 ――心を乱す存在。


 思い浮かべたくないのに気がつくと考えているのと同じ人間。

 ただ『それ』がどんなかたちをしているのか、信乃には分からないでいる。

 静かな部屋に鋏の音が響く。

 髪を切る為の鋏もまた、雨刀の一種である。

 耳に慣れた心地いい音だ。身を委ねていると、信乃の内にあるもやもやもいらいらも鎮まってくる。


「……あの、今日は何が原因で喧嘩したんですか?」


 おずおずと信乃は尋ねてみた。

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