初めて見る景色


 どう考えても話題の中心は信乃だ。

 文句を言おうと、足を出そうとしたときだった。


陽生あきお


 はっきりと。

 ヨウセイドノ、ではなく、あきお、と信音が陽ノ国の第二王子の名を呼んだ。

 並んで立っていたのに、信音が陽生に体を向ける。


「友人として頼みがある。信乃の心を奪うようなことはしないでくれ」

「いきなり何を言い出すんだ」


 陽生が声を上げて笑う。しかし、信音は真剣に返した。


「練り紅は、あの子にとって『初めて見る景色』だ」


(……!)


 信乃は両手で口元を抑える。

 何も言わなかったのに、兄は、練り紅のことを知っていたのだ。


「僕は知っている。陽ノ国で、『』ことの意味を。……戯れに引っ掻いたつもりでも、傷つけられた方にとっては致命傷となる場合だってあるんだ」


 飛び出して否定しようとした信乃の腕が後ろから強く引っ張られる。

 驚いて振り向くと、背後には無表情の丹生が立っていた。


「信乃さま。わたしからしてみれば、全く同じことをあなたにお伝えしたく思います」


 突然の発言に一瞬怯んだものの、負けじと信乃は反論した。


「まさか! 調子を狂わされて困ってるだけです。あなたの主は、ひとをからかいすぎですよ」

「いえ、調子が狂っているのは我が主の方です。あの方が何かに、……他人に執着を見せるなんてことは今まで一度もありませんでした。こんなことは前代未聞です」


 信乃の言葉を待たずに丹生は続ける。


郁李いくりさまへは、まだ練り紅をお贈りになっていないというのに」


 無表情ではなく、睨んでいるのだと信乃はようやく気づいた。入り口で睨まれたのも。苦虫を噛み潰したような表情に込められているものの正体。

 向けられているのは、敵意だ。


「いく……り……?」

「陽生さまの奥方となられる方の、……婚約者のお名前です」


 郁李という名前を信乃は初めて耳にした。


『お相手はいちばん権力の強い豪族の娘で』


 なのに信乃の脳裏には紗絢の言葉が突然蘇った。それは何故だか棘と変わり胸に刺さる。


「そ、それは一大事、ですね。でも、ほんとうに、陽生さまとわたしの間には何もないので」


 眩暈がする。声が震える。

 信乃の指先が感じたことのない冷え方をしていく。

 不快感とは違う、説明のできない感情が底から湧きあがってくる。


 何もない。


 嘘はついていない。ただ、雨晶を渡しただけ。練り紅を受け取っただけ、だ。

 練り紅を贈る意味なんて、信乃は知らない。

 ……湧きあがってきた黒い澱みは信乃を包もうとする。


「それがあなたの心の真であるというなら」


 丹生が地底湖を指差す。

 信乃が視線を向けると、いつの間にかふたりは信乃たちを見ていた。


「そのようにあちらで宣言してくださいませんか」

「しますとも! だって、何とも! 思って! いませんから!」


 澱みを振り払うようにずかずかと大股で信乃は地底湖の前まで歩いて行った。

 己を奮い立たせるように仁王立ちで止まる。

 一方で、信音の表情は青ざめていた。陽生は、眉毛が下がっている。

 信音が口を開く。


「もしかして聞いていたのか」

「最初からじゃないけれど聞いていました。兄さま、勘違いをなさらないでください。陽生さまは誘拐事件のお詫びの品として練り紅をくださっただけです。そうですよね、陽生さま!」

「えっ。……あ、あぁ」


 陽生がたじろぎつつも頷いた。

 息継ぎのない強い物言い。ふたりからの言葉を許さないように、信乃は胸を張り、両腕を組んでみせた。


「だいたい、兄さまは心配性すぎるんです。どうしてわたしが今はぐれていたか分かりますか?」


 信乃はしゃがむと地底湖の水を掬う。

 水たまりと同じ、水のやわらかさ。遠目から見ると乳青色でも、掌のなかの水は透明だ。

 立ちあがってふたりに水面を見せた。


「ここの水も雨だというなら、煮詰めれば雨晶となるのではないか、思案していたからです」

「ぶっ」


 突然の話の転換に、陽生と信音が同時に噴き出した。


「……あまりにも信乃らしすぎて安心した」

「安心していただけて何よりです。それにしても、地下にこんなに美しい湖があるなんてまったく知りませんでした。人間の力よりも遙かに、大自然の……雨の偉大さを感じます」


 『雨』の美しさを口に出すことで、信乃のなかに生じた澱みは消え去っていく。


「わたしたちは、『雨』に生かされているだけにすぎないのだと」


 平常心を取り戻した信乃の強い瞳は『雨』しか映さない。

 ようやく、信音が表情を和らげる。


「……そうだね。人間とは、ほんとうにちっぽけな存在だ」


 それから、陽生に向かって深く頭を下げた。


「陽生、すまなかった。無礼を詫びさせてほしい」

「いや、こちらこそ誤解を招くようなことをして悪かった」

「これでこの話は終わりにしよう。信乃も到着したことだし、儀式をはじめようか」


 すっ。信音が地底湖の中央を指差す。

 左右から伸びる朱い橋の中心に、四本の柱が建っていた。その上にちょこんと屋根が載っている。


「あれは小礼拝堂。今から僕と陽生殿でそれぞれ左右の橋を渡る。やり方は説明した通りだ。その間に、湖の水面は僕たちを清めてくれるだろう。そして小礼拝堂で『雨刀』を受け渡すことになる。受け取った後は、僕が渡ってきた橋を通ってこちらへ戻ってきてくれ」

「荘厳な儀式だな。……因みに、『雨晶』も似たようなことを行うのか?」


 陽生からちらりと視線を向けられたような気がするが、信乃は気づかないふりを装う。だから説明したではないか、とは口が裂けても言えないし言わない。


「ああ。地上にある小礼拝堂で行う。信乃の工房の近くにも、中礼拝堂というところがある。これら三つは神殿のような位置づけだ」

「なるほど」

「では、早速始めようか」

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