耳朶を打つ声


 翌朝、ようやく陽が昇り始めた頃。


 あまりの寒さに目が覚めてしまった信乃は、寝間着の上に半纏だけではなく布団用の毛布まで背負って、なるべく素足を床につけないようにして厠へと向かっていた。

 それでも足の裏が冷たい。早く用を済ませて暖かい部屋へ戻りたかった。

 すると縁側に人間の気配を感じて立ち止まる。

 寝間着に半纏姿の陽生が立っていた。朝だからだろうか、前髪は下ろしている。

 視線の先は、珍しく雪が積もって一面真っ白になっている中庭だ。

 突然、両腕を大きく振りかぶって、陽生が勢いよく跳ぶ。


 さくっ。


 見事な着地のあと、数歩進む。何を思ったのか、自分の足跡を確認していた。満足そうに何回も頷くと、子どものようにくしゃっと破顔した。


「あ」


 そこでようやく信乃の気配に気づいたのだろう。ばつが悪そうに視線を逸らす。

 信乃は気にしていないというのを示す為に、己の両手を擦り合わせて白い息を吐きかける。見ているだけだとどんどん冷えていくから、というのもある。


「おはようございます、陽生ヨウセイさま。雪が珍しいとお見受けしました」

「信乃殿、おはよう」


 『殿』付きの呼び名に戻っていたことに、信乃はほんの少しだけ引っかかるも流す。


「恥ずかしいところを見られてしまったな。その通りだよ。陽ノ国は常春なので、雪が降ることはまずありえないから」


 しかし、どれだけの時間中庭を眺めていたのだろうか。陽生の鼻先は真っ赤になっている。


「雪というのはふわふわしているんだな」

「もっと北の方ですと、人間の背丈を遙かに超えてかたく積もる地域もあります。そのような場所では雪は生活の脅威でしょう」


 信乃は事務的に説明する。世話係を任せられたとはいえ、昨晩も会話らしい会話はしていない。

 今、陽生から呼び捨てにされなかったし、どのように接したらいいのか信乃は迷いあぐねていた。


「そうだな。世界は広い。まだまだ私の知らないことばかりだ」


 陽生が縁側に向かって歩いてくる。

 信乃の目の前に立つと、ふたりの目線の高さが合った。


「今日は雨ツ国を見て回りたいのだが、案内してくれるだろうか。この国のことを教えてほしい」

「喜んでお引き受けいたします。ところで陽生さま、いい加減に寒いと思いますので、お上がりください」

「それもそうだな」


 すると、陽生は信乃の耳元で低く囁いた。


「見せたいものがあるんだ、

「……ッ!」


 耳朶じだを打つ低い声。咄嗟に信乃は身を反らす。床に勢いよく毛布が落ちた。

 あんなに寒かったのに一瞬にして全身が沸騰したかのように熱を発していた。慌てて毛布を拾い立ちあがる。

 すると、いたずら好きの少年のように、陽生はにっと八重歯を見せて笑ってみせた。



「どういうことか説明してちょうだい。って、どうして笑うの」

「いや、予想通りの反応すぎて」


 炊事場へ朝食の手伝いをしに現れた紗絢に、信乃は苦笑いを浮かべるしかなかった。


「びっくりしすぎてあごが外れるかと思ったわよ! いつから知ってたの?」

「秋頃に旅商人として現れたときの、帰り際」


 嘘はついていない。ただ、すべてを話しはしないだけ。

 丹生のことまで話せばややこしくなるのは明白だったし、こわい目に遭わせたことを思い出させたくなかった。


「ふーん。つまり、あの練り紅は、帰り際にお礼の品としていただいたってことね?」

「……そう」


 嘘は、ついていない。

 土鍋から白米の炊きあがっている香りが湯気と共に立ち昇る。蒸らしに入ったのを確認して、料理の仕上げに取りかかる。

 根菜入りの汁が入った鍋には沸騰直前で火を止めて豆味噌を溶き流す。

 ぬか床からいい塩梅に浸かっているくたっとした野菜を幾つか取り出して、軽く表面をはたいてから食べやすい大きさに切る。

 炭火で焼き上げた魚の切り身をひとつずつお皿に移して、左隅にぬか漬けを載せた。


「だけどあれはあくまでもお忍びだったから、今回があくまでも初訪問ということらしいの。だから紗絢も変なこと言わないようにしてね。あくまでも、陽ノ国の第二王子として接するのよ」

「はーい」


 分かってくれているのかいないのか掴めない返事。

 信乃はこれ以上言及することを止めておく。

 蒸らした白ご飯をさっくりと混ぜてから、お茶碗によそった。完璧な炊き加減。米粒は一粒ずつ立って燦めいている。


「さーて、運びますか。あたしも顔のいい王子さまを拝ませていただこうっと」


 紗絢は膳を仕上げると軽やかに土間から上がる。

 ふたりが交互に人数分の膳を暖まった大広間に運び終わる頃には、長老や、朝稽古を終えた信音が姿を現す。

 毎朝食を手伝う紗絢や泊まり込みの使用人も下座に席が用意されている。これは、誰とも分け隔てなく接する長老の意向だ。


「信乃。御客人を呼んできなさい」


 玉露を口に含みつつ、長老が指示する。

 はい、と答えて信乃は客間へ足を運ぶ。暖の及ばない廊下は冷え切っていて、すぐ足が冷たくなっていく。


(さっきのあれは何だったんだろう)


 見せたいものがある、と陽生は囁いてきた。

 さらにどう接するべきか信乃は答えを出せないでいる。

 それでも、ふすまの前に膝をついて、信乃は声をかけた。


「陽生さま。丹生さま。朝食の支度が整いましたので、お迎えにまいりました」

「ありがとう」


 ふすまがさっと開かれる。

 薄墨色の小袖を着て、髪は後ろに撫でつけた状態の陽生が立っていた。後ろに丹生も控えている。

 信乃が背後に視線を遣ると、隅に布団がきちんとたたまれていた。


「おはよう、信乃殿

「……おはよう、ございます」


 すぐさまくるりと信乃は陽生に背を向ける。顔を合わせるのがなんだか気恥ずかしかった。

 それに、丹生の刺すような視線も気になる。


「大広間にご案内いたします。どうぞこちらへ」

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