紅をひく
*
「馬子にも衣装とは言い得て妙ね!」
信乃の部屋に飛びこんできた紗絢が快哉を叫んだ。
「あの地味な根岸色以外にも服を持っていたとは思わなかったわ。なんだかんだ信乃もお姫さまだったのね」
「一言も二言も余計なんだけど」
今日の信乃の恰好。
淡い
「似合ってるって言ってるのよ。それにしても陽ノ国の第二王子がいらっしゃるなんて。どんな方なのかしら?」
「……見れば分かると思う」
「そっか、
今すぐ暴露してやりたいという気持ちに駆られるものの、信乃はぐっと飲みこむ。陽生が現れたら自ずと判ることだ。
すると紗絢が持参した桐箱を広げてみせた。なかには化粧道具が入っている。
「せっかくだし、紅でも引いてみる?」
「ちょっと待って」
信乃は
蓋に
「これを使ってみたいんだけど」
「何、この練り紅! 初めて見るんだけど」
「だって初めて見せたもの。お願い。使い方を教えてちょうだい」
艶々と光る練り紅に紗絢は鼻を近づける。それからにやり、と笑みを浮かべた。
「すごく上品な椿の香りね。とんでもない高級品よ。どこでこんなもの手に入れたの」
「詳しい話は気が向いたらしてあげるから」
「……ふーん?」
紗絢は信乃をじっと見つめる。
興味が抑えきれない表情。瞳がらんらんと輝いている。
「今度、久しぶりにお泊まりでもさせてもらおうかしら。洗いざらい喋ってもらわなくちゃ」
桐箱から黒くて小さな筆を取り出すと、紗絢はほんの少しだけ練り紅を取り、自らの右の手の甲に置いた。それから左手の中指と薬指でくるくると広げて紅を柔らかくすると、ぽんぽん、と信乃の頬に指の腹を当てて色を馴染ませる。
「……ほんとだ。椿の香りがする」
信乃は練り紅を受け取って以来、手にして蓋を眺めはするものの開けたことはなかった。
元々化粧をしないので、開けること自体に躊躇っていたのだ。陽生と顔を合わせる今日なら開封に適しているだろうと思っての提案だった。
「自分のものなのに、今さら?」
慣れた手つきで楽しそうに両頬を練り紅で染める紗絢。
信乃にとって幼なじみの筈なのに、まるで姉のようだった。
「口、少し開けて」
「うん」
手慣れた仕草で唇にも色を乗せていく。
「塗り終わったら、唇を何回か合わせたり閉じたりして馴染ませるといいわ。ほら」
傍らのちり紙で自らにつけた紅を拭き取って、紗絢は手鏡を信乃に向けた。
練り紅としては鮮やかな柘榴色をしていたのに、信乃の肌と唇の上に乗った紅は、まるで信乃の為につくられた色であるように完璧になじんだものに仕上がっていた。
色だけではなく椿の香りを纏った信乃は、気恥ずかしそうに俯く。
「なんかどきどきするんだけど、血流がよくなる効果もあるのかな」
「なーに言ってるの。見慣れなくて、緊張してるだけでしょ? すぐ慣れるわ」
へ、と信乃が呆けた声を出す。
「びっくりしすぎ。阿呆面になってる」
「ご、ごめん」
「筆じゃなくて指でいいから、少しだけ取って手の甲で緩ませてから使ってあげるといいわ」
「わかった。ありがとう」
「大丈夫、ちゃんとかわいいから。それで陽ノ国の第二王子を誘惑しちゃいなさいな」
「なんてことを!」
「冗談よ。第二王子には婚約者がいるもんね」
紗絢が陽生を見たらどんな反応をするだろうと思い、信乃は溜息を吐き出す。
聡い親友はすぐに練り紅の贈り主が誰か気づくだろう。
そこへ、ぱたぱた、と手伝いの者が駆けてくる。
「陽ノ国の第二王子がお越しです。お出迎えをと、長老が」
「はい、分かりました」
「さて、あたしも遠くから眺めるかな。信乃、がんばってね」
信乃と紗絢は見つめ合い、掌を合わせて指を絡めた。
「ありがとう、紗絢」
背筋を伸ばして、信乃は玄関へ向かう。
かかとの高い真珠色の草履を履き、門まで歩いて行く。意識して深呼吸をする度に椿の香りを感じた。
長老と信音は先に門前に立っていた。
全員、吐く息が白い。
「信乃! それが新しい小紋か。よく似合ってる。なんだかいつもと雰囲気が違って見えるよ」
信音が顔を綻ばせる。そんな兄も、新調した同じ柄の焦げ茶色を着ていた。
「ありがとう、兄さま」
しゃらん、しゃらん。
軽やかな鈴の音が耳に届く。
遠くから、馬に乗った人間が近づいてくるのが見えた。
信乃の視線は釘付けになり、体は指先一本すら動かせない。
しゃらん、しゃらん。
純白の馬、ハルに乗っている赤銅色の髪をした青年。
立ち襟の黒い外套。その縁取りは波状の金色。
縦に並ぶ三つの
中央線の入った
尖った耳。
信乃が秋に初めて会ったときと違って、髪の毛はすべて後ろに撫でつけている。きりりとした眉が露わになっていて、堂々たる雰囲気に華を添えていた。
(また会えるなんて)
信乃はしばしの間呼吸を忘れ、
二度と会うことはないだろうと考えていたのに、あっけなく訪れた機会。
己の心臓の音がやけに大きく響くような気がした。
(わたしは、陽生さまに会いたかったのかな……)
その答えを、信乃は持っていない。
それでもまだ視線を逸らすことができないでいる。
青年は、門の前に馬を止めると、すっと地面に立つ。
同行者のおかっぱ頭の従者、
信乃は慌てて背筋を正す。前回は陽生を呼び戻す為とはいえ信乃たちを危険な目に遭わせた人間なので、自然と構えてしまいそうになったからだ。
長老が両手を合わせて最敬礼する。
「雨ツ国へようこそお越しくださいました。」
信音と信乃も頭を下げた。
「お初にお目にかかります。
男ふたりが顔を上げた気配を察して、信乃も遅れて礼を終える。
目の前にうっすらと微笑みを浮かべた陽生が立っていた。
信乃は、初めて会ったときと同じこの笑顔が対外用なのだとようやく理解する。
ふと信乃と陽生の視線が合うが、一瞬にして陽生は顔を逸らした。
信乃は口を開きかけて思いとどまった。ここは公の場だ。それに、秋の出来事は戯れだったのだろう。
現に今、陽生は自分たちに対して初対面のように振る舞っているのだ。
「次期首長の信音と申します。この度はようこそお越しくださいました。さぁ、陽ノ国と比べてここはかなり冷えるでしょう。館のなかはしっかりと暖めておりますので、どうぞお入りください」
一方で、信音は平然と、堂々たる態度で陽生を招き入れる。
長老、信音と陽生、その後ろに丹生。
最後尾の信乃がふと空を見上げると、灰色に重たく立ちこめる雲から、はらはらと雪が舞い降りはじめるところだった。
椿の香りをわずかに残したまま、ゆっくりと館に戻る。
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