告げられたのは
*
信音が『雨』の加工士となった祝宴は盛大に催された。紗絢の持ってきた酒はやはり上物でとても喜ばれた。猪肉の料理も数種類振る舞われた。そして朝まで賑やかな時間は続いた。
その数日後、信音と信乃は長老から呼び出された。
薄暗い廊下を歩きながら胃の辺りをさする信乃を見て、信音が苦笑する。
「信乃。そんなに青い顔をすることはないだろう」
「爺さま直々に、早く加工士になれっていうお話としか思えない……胃が……」
長老の部屋は館の最奥部にあり、部屋まで孫たちを呼びつけることは年に数回しかない。
たとえば悪戯が発覚したとき。学び舎での成績が悪かったとき。信乃にとっては、呼び出されるすなわち注意をされるとき、という刷り込みがされている。
そう信乃が訴えても、信音は品行方正かつ成績優秀だったのでその気持ちが分からないといつも答えてくるのだった。
長老の部屋の前に到着して、扉越しに信音が声をかける。
「失礼します。信音と信乃がまいりました」
「よく来た。中へ入りなさい」
「はい」
信音がさっとふすまを開ける。
長老は上座で、茶托の上に置かれた羊羹を大切そうに頬張っては一口毎に玉露を啜っていた。雨ツ国の首長とはいえ、その和室は決して広くはない。
「座りなさい」
「失礼します」
信音と信乃は下座に正座して背筋を正す。
長老は髭とも髪とも区別のつかない自らの白い毛を撫でつつ、ふたりに視線を向けた。
穏やかな好々爺であっても一国の主だ。緊張感で室内が張りつめる。
「まずはあらためて。信音、加工士合格おめでとう。お前は儂の自慢の孫だ」
「ありがとうございます」
信音が頭を下げる。
次に来る話を予想して信乃は縮こまった。
しかし、話は想定外に転がった。
「今日ふたりを呼んだのは、今後の雨ツ国についての話をする為だ。晴れて『雨』の加工士となったことだし、信音が二十歳になったら儂は首長の座を譲ろうと考えている」
えっ、と兄妹は揃って声を上げる。
「儂はもういい歳だ。そろそろ隠居生活をしてもいい頃合いだろう。それに、儂が首長となったのも二十歳だったぞ」
「ですが、爺さま」
「そもそも、お前らの父親が『あのようなこと』にならなければもっと早く引退しておったのだ。早い話ではない」
『あのようなこと』……。
隠された意味が重くのしかかる。
信音は唇を噛み、信乃は膝の上で拳をぎゅっと握った。
「これから信音には次期首長として一層の心構えを持って生活してもらう。まず、他国へ献上する
「他国……といいますと?」
「
「ごほっ」
陽生。
その名前に反応して、思わず信乃はむせ返る。
思い出さないようにしていた陽ノ国の青年。
淡い黄褐色の肌。尖った耳先。赤銅色の髪に、柘榴色の瞳。
眩しい笑顔。
ふたりの視線が怪訝そうに信乃に向いたので、信乃は思いきり視線を逸らして掌を長老に向けた。
「す、すみません。お気になさらず、続けてください」
「秋頃に一度会っているな。あれは実に快活な青年だった。第一王子よりも外向的だと耳にしているので、我が国とのよき架け橋になってくれるだろう」
「承知しました。誠心誠意、刀を打たせていただきます」
「それから、信乃。お前には陽生殿が滞在中の世話を任せたい」
「えっ?」
さらに話が転がり、信乃は呆けた声を出してしまう。
「何を驚いておる。信音が首長となった暁には、お前も雨ツ国を支える屋台骨のひとつにならねばいかんのだぞ。くれぐれも粗相のないように頼む。お前はもう少し、おしとやかという単語を体内に入れるべきだ」
「は、はぁ」
信乃が思わず生返事をしてしまうと、後ろから信音が強く背中を叩いてきた。
むせながら涙目で答え直す。
「……せ、誠心誠意、つとめさせていただきます……」
「話は以上だ。宜しく頼む」
「はい。失礼します」
信音と信乃は退出して、顔を見合わせると、それぞれの理由で小さく溜息をついた。
二人は暗黙の了解のように、暗くて冷たい廊下から地下へ続く階段を下りていく。
足を進めるごとに花のようにも感じる独特の香りが強くなる。
信乃はこの香りがあまり好きではない。香りが記憶と結びついているとするなら、よくない記憶を思い出すときはたいていこの香りがしていたからだ。
眉を顰めて、口をきゅっと結ぶ。
慣れた手つきで信音が灯りをつける。
階段の先には、牢屋のように檻で閉ざされた部屋があった。
香りの発生源はここに焚かれている煙の立たない香だ。精神を安定するものだと、かつて教えられた。
六畳ほどの和室の中央に敷かれた布団で、髪の長い、痩せこけた女性が眠っていた。兄妹によく似た、色白い肌をしている。
檻に手をかけて、信音は女性を見つめた。
「母さま。爺さまから、二十歳になったら首長の位を譲ると、言われました」
ふたりの母親は眠ったままぴくりとも動かない。
信音は額を檻に当て、瞳を閉じる。
「いつかはこんな日が来るのだと分かってはいましたが、どうしてもあなたに訊きたいことがあります。母さまは、父さまと結婚して……幸せでしたか?」
言葉が暗い床に落ちて吸いこまれるように消える。
普段は穏やかな信音からは想像のつかない暗く澱んだ問いかけだった。
兄がそんなことを考えていたなんて、信乃は知らなかった。
そもそもふたりの間で両親に関する深い会話がなされたことがない。意識して、時には無意識に避け続けてきた問題なのだ。
信乃は俯いて、両手をぎゅっと握る。
『幸せでしたか?』
兄の零した心のうちは、信乃のなかにも黒い染みのように落ちていくのだった。
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