第二話 冬 ~恋と呼ぶにはあまりにも

好きな理由は?


「冷たい……」


 館の炊事場で、割烹着姿の信乃しのは野菜を洗っていた。


 今朝、雨ツ国あまつこくに初雪が降った。蛇口から出てくる水の冷たさは容赦なく指先を刺してくる。雪は積もりこそしないものの冬の寒さは厳しいものがある。

 土間の炊事場に立っているだけで、吐く息は白い。しかし、今日は自分が料理の支度をしなければならない。


「……兄さま、大丈夫かな」

信音のぶとさまなら無事に合格されたそうよ」


 現れたのは紗絢さあやだった。大きくて長い鼠色の箱を抱えている。


「紗絢!」

「これ、我が家からのお祝い」

「ありがとう」


 両手で受け取るとかなりの重量だ。箱の上部には銀色の文字で『祝』と書かれている。おそらく上物の酒だろう。

 今日は信音が『雨』の加工士として認められる為の試験日だった。合格は疑っていなかったものの、ようやく胸を撫でおろす。


「兄さまもこれで一人前の加工士か」

「次は信乃の番ね」


 紗絢が信乃にぴたりとくっついてくる。


「うぅ、がんばる……」

「そんなに気負わなくたってなんとかなるって。ほら、あたしも手伝うから、支度のつづきをしましょ。なんてったって、信音さまのハレの日なんだから! 全力でお祝いしなきゃ!」


 勢いよく紗絢は流水で手を洗った。その瞳はきらきらと輝いている。持ってきた白い前掛けをつけると菜切り包丁を手に取った。それから、水気を切った野菜を軽快に刻みはじめる。


「ちょっと。冷たくないの? わたしは今にも凍えそうなんだけど」

「恋する乙女の前に敵なんてないのよ」

「恋、ねぇ」


 信乃は肩をすくめてみせた。

 しかしそんな信乃の反応などおかまいになしに、紗絢は勢いよく右腕を挙げた。


「あたしの人生における最大の目標は、母さまみたいに短髪のまま婚礼の儀を迎えることだから」

「恰好つけるのはいいけれど、こわいから包丁を振り上げないで」

「ごめんごめん」


 紗絢の母は髪切士だ。信乃も短髪の維持に毎月通っている。娘に豪快さを足した、竹を割ったような性格の母親だ。

 一方で、幼なじみである髪結士と結婚した為に短髪を貫いている雨ツ国中の少女の憧れでもある。


「ところで」


 突然興味が湧いて、信乃は口を開いた。


「紗絢は兄さまのどんなところが好きなの?」


 物心ついたときから紗絢は信音が好きだと公言している。

 しかし、信乃は、一度も理由を訊いたことはなかった。


「……紗絢?」


 沈黙した親友の横顔は真っ赤になっていた。


「ちょっと。なんてことを訊くのよ」

「えっ。ごめん」

「……優しいところ」


 文句の後に述べた理由。

 紗絢の包丁を動かす手が止まる。


「ずっと昔の話よ。両親の婚礼の記念日にお祝いの品を贈ろうと思ったあたしは、色とりどりの木の実を集めて髪飾りをつくろうと思ったのね。そして信乃にさえも言わず山に入った。木の実を拾ってさぁ帰ろうと思ったら、案の定迷って遭難しかけちゃって。雨も降り出して、凍えながら木の下に隠れていたら、猪が現れてこっちを見るのよ。餌って認定してきたときの野生動物の顔って恐ろしいの。あたしは、食べられる、って半泣きになったんだけど」

「ちょっと。初めて聞いたんだけど」

「最後まで聞いて。猪が今にも襲いかかってきそうなとき、その後ろから跳び上がった影があったの。そして後ろからばっさり。猪は絶命。それが、信音さまだったの」


 普段の温厚な信音からは想像もつかなかったが、信乃は思い出す。

 兄が、剣術の師範代でもあることを。


「そして信音さまはあたしを抱きかかえて家まで送ってくださったの。まるでお姫さまみたいな気分だったわ」


 うっとりとした瞳で語る。

 それが彼女にとって『優しいところ』の終着点らしい。


「因みに数日後の記念日には、信音さまから猪の肉が贈られたわ。あのときの鍋料理は最高に美味しかった」

「そ、そう」

「でもそれだけじゃないのよ。恋すると、そのひとのことを観察するようになるから、もっと好きな理由が増えていくの」


 紗絢の顔が綻ぶ。


「今日めでたく叶った、加工士となる為に日々修業しているという勤勉さ。趣味である料理に対する深い造詣。なによりも次期首長としての落ち着いた佇まい。勿論、道場で稽古をつけているときの厳しさや鋭さも」


 まるで大輪の花が咲くように。

 恋というもののすばらしさを、信音の美点を、紗絢は語ってみせる。


(なんだか紗絢の方がわたしより兄さまについて詳しい気がしてきた)


 それは、信乃にとっては初めての紗絢の表情だった。

 恋とはかくも親友を未知なる存在にさせるのか、と感心したとき。


「……僕がなんだって?」


 いきなり炊事場に現れた信音に、ふたりの少女は驚いて短い悲鳴を上げる。


「おいおい。まるでひとを幽霊みたいに」

「ごめんなさい。それよりも、兄さま、合格おめでとうございます」


 きちんと向かい合って、信乃は信音を見上げる。

 今までどれだけ努力してきたかについてだけは紗絢と同じくらい理解している。そして、兄であり、加工士としては先輩に当たる。そんな兄が一人前として認められたことはとても誇り高いことだ。

 ふっと信音が笑みを浮かべた。


「ありがとう。次は信乃だよ」


 信音が信乃の頭を優しく撫でる。


「紗絢と同じことを言わないでください……。重圧が」


 静かさに違和感を覚えて信乃が横を向くと、紗絢は頬を赤く染めたまま瞳を潤ませていた。

 想い出話のおかげでいつも以上に意識させてしまったのかもしれない。そう信乃は考えて、ふと気づく。


 ――今まで、紗絢がどんな表情で信音を見ているか気にしたことがなかったということを。


「ところで料理の進捗はどうだい? 手伝おうと思って来たんだよ」

「主役が宴の手伝いをするなんて聞いたことがありません。部屋でお休みになっていてください」

「僕がじっとしていられないのは知ってるだろう?」


 信音が意気揚々と袖をまくる。


「この日の為にとっておきの猪肉を用意しているんだ。好みの加減に焼かせてもらうよ」

「……猪肉」

「ん? どうした、信乃?」

「いえ、なんでもありません」


 信乃の脳内には何故だか意気揚々と猪を仕留める兄の姿が浮かんでいた。しかし、その猪は自らで仕留めたものですかと尋ねることはできなかった。

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