紅と別れ


 なんとか信乃が館まで帰ってくると、入り口では信音が心配そうな表情で待っていた。


「おかえり、信乃。紗絢は帰らせたよ」


 その言い方で、信乃は確信を得る。

 信音は事の真相を知っていたのだ。真のならず者が相手なら、信乃が帰ってくるまで紗絢を待たせていた筈だ。うまく言いくるめて安心させて家へ帰したのだろう。

 拳を握りしめ、信乃は、兄に問う。


「兄さまは、すべてをご存知だったのですか?」

陽生あきおの正体なら、初めに爺さまから教えられていたよ。爺さまが初対面でただならぬ者だと見抜いて、本人に尋ねたらしい。そもそも、白馬というのは王族かそれに近い者しか所有してはいけないしね」


 つまり信乃には隠されていたということだ。

 白馬のことも初めて知った。長老の孫娘でありながら、信乃は政から遠ざけられているのだ。

 信音が、口数も少なく気落ちしている信乃に近づくと、背中を優しく撫でた。

 兄はいつも信乃のことを気遣ってくれる。心配の度合いが深いことは、信乃にも容易に想像がついた。


「疲れただろう? もう風呂に入って休むといい」

「……はい」


 促されてようやく靴を脱ぐ信乃の背中に、信音が声をかける。


「紗絢から話を聞いて、陽生はひどく反省していたよ。自分の所為で危険な目に遭わせてしまった、って」


 答える代わりに信乃は唇を噛む。

 言葉を発しようものなら泣いてしまいそうだった。

 苦手なのに。

 こわいと感じるのに。

 どうしようもなく、考えてしまう。

 雨晶を前にしたあの表情ですら偽りだったとしたら、と。


(そうか)


 ……湯槽に浸かりながらも、思考はやまない。


(あの瞬間、わたしは陽生さまに心を許しかけていた)


 そして、たっぷりの時間をかけて、感情は結論に辿り着く。

 雨晶を観たときの陽生の表情を、思い出しながら。


(それが裏切られたような気がして、かなしくなったんだ)



 その夜。

 大広間からかすかに聞こえていた宴の賑やかさが嘘のように館は静まりかえっていた。

 ひときわ賑やかに感じたのは己が孤独さを感じていただろうか。ずっと暗い部屋のなか、信乃は布団のなかに身を潜めていた。

 誰とも話したくなかったし、顔を合わせたくなかった。どんな顔をして、どんな風にひとと話せばいいのか分からなくなっていた。

 信乃が何度目かの寝返りを打ったとき、扉を叩く音がした。


「……信乃」


 扉の向こうから話しかけてくる声の主は陽生だった。

 信乃の身は自然と固くなるものの、耳は、陽生の声を聴こうとしてしまう。


「どれだけ詫びても届かないとは思うが、巻き込んで申し訳なかった。おれは今から発って、丹生たちと共に国へ戻る。短い間だったけれど世話になった。最後に、持ったままだった雨刀を返しに来たんだ。……これだけはどうしても自分で返したくて、信音に無理を聞いてもらった」


 陽生が丹生に向けて、正確にはわざと外して突き刺した雨刀。

 信乃はその場面を思い出して震え、両腕で己を抱きしめる。


「怒っているよな。だけど、どうしても、ひとつだけ聞いてほしいことがあるんだ。きみのつくる雨晶はほんとうに美しかった。こんなに何かに焦がれる感情は初めてだった。おれは、生まれたときから何もかも与えられてきて、これまで不足のひとつもなく生きてきた」


 それは第二王子という自らの立場を指してのことだろうか。

 言葉が一瞬途切れる。それから躊躇ったように、だけど、強く、続く。


「そんなおれの内にこんな……何かを欲したいという感情があると教えてくれて感謝する。一生、大事にさせてもらう」


 ――焦がれる感情。


(嘘じゃ、なかった)


 信乃は暗闇のなかで瞳を開く。

 それは、信乃が人魚の鱗に抱いた、想いと同じ。


(同じだった)


 美しい、という感情。

 それを共有していた——失望は翻って喜びへと変わる。


「伝えたいことは伝えられたから、もう、行くよ。さようなら」


 陽生が去ろうと立ちあがる気配に、信乃は飛び起きて扉を開いた。


「お待ちください!」

「……よかった」


 陽生はまだ廊下に膝をついていた。雨ツ国へ現れたときと同じ、貫頭衣のような服を着ている。

 信乃と視線が合うと、破顔する。

 借りてきたのだろう角灯の明かりで、はっきりと見えた。

 もはや真偽はどうでもよくなるほどに、眩しい、屈託のない笑顔。


「最後に、会えた」

「なっ……」


 信乃の頬は、一気にあかく染まる。


(また、騙された)


 最後までこの男の調子に狂わされっぱなしだ。

 寝間着のまま出てきてしまって、はしたないことこの上ない。だけど、騙されてよかった、と何故だか思う己がいるのも事実。そんな自分に驚いていることも。

 それらすべてに気づかれていないようにと信乃は切実に願う。

 そんな願いは知って知らずか、陽生が雨刀あがたなをそっと廊下に置いて差し出した。


「短刀とはいえ、こんな刀は初めて見た。鞘のなかにあってもなお、静かなのに決して負けないという意志を感じる。雨刀、すばらしい刀だ」


 信乃も床に座って、厳かに雨刀を手に取る。

 かつて母から譲り受けた、母が加工士として打った、大事な護身刀でもある。両手で、しっかりと抱きしめた。


「……ありがとう、ございます」

「もうひとつ渡したいものがあるんだけれど、いいかな」

「なんでしょうか」


 ほんの少しだけ解けた警戒心。

 それは信乃が姿を現しても、陽生が決して室内へ入ってこようとせず、廊下から語りかけてきてくれているのも理由のひとつかもしれない。

 陽生は、信乃のことを気遣ってくれているようだった。


「手を出して」


 信乃は大人しく両手を差し出した。

 包みこむように握りしめ、陽生がゆっくりと手を離す。

 掌の上には小さな丸い缶が置かれていた。蓋に描かれているのは、彼岸花のような翼を広げた鳥だ。想像すらできなかったのに、この鳥が朱ノ鳥あけのとりだということは信乃にも理解できた。

 陽ノ国の守護鳥。燃えさかる炎の守護神。


「人魚の鱗はあげられないけれど、代わりに紅を受け取ってほしい」


 信乃がおそるおそる缶を開けると、柘榴色の練り紅が燦めいていた。

 化粧品を持ったことのない信乃だが、わずかに胸が高鳴る。


「ありがとう、ございます……」

「では、またいつか会おう。雨ツ国の勇敢な姫君」


 微笑みを浮かべたまま陽生が立ちあがる。廊下の奥には丹生が立っていて、信乃に向かって軽く頭を下げてきた。

 そしてそのまま陽生は振り返らずに去って行く。

 角灯の光が消えて、再び廊下は闇に包まれる。

 信乃は再度練り紅へ視線を落とす。

 闇のなかでも分かる、鮮やかな色彩。


陽生あきおさまの、瞳の色」


 体も頬もすっかり冷えきっている。

 それなのに。

 包みこんできた陽生の、手の温もりだけがやけに残っていた。

 瞳を閉じる。陽生の表情が、声が、鮮やかに蘇る。


(……不思議なひと、だったな)


 まだ、温かい。

 信乃は、そっと。

 練り紅を口元に寄せた。




          【第一話 了】

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