不審者の襲撃


 ぐつぐつ……。火廣金の両手鍋のなかで、雨が沸騰している。

 この火加減で最終的な透明度や色合いが変わってくるので、神経を使う大事な作業だ。

 信乃が真剣に鍋を見つめていると、長机の隙間に入りこんでいる雨晶の粉をかき集めていた紗絢が突然話しかけた。


「あたし、思うんだけど」


 何? と、信乃は鍋から目を離さずに尋ねる。


陽生あきおさんって実はお忍びの豪族なんじゃないかしら」


 信乃はその名前を聞くだけでびくっと肩が震えた。

 調子が悪くなったと言って、昨晩も今朝ご飯を大広間で食べなかった。陽生を極力避ける、を忠実に実行しているのである。


「なんかこう、食べ方とか所作がいちいち美しいのよね。顔だけじゃなくて。それに、入り口に繋いであるあの馬。ハルっていうんだっけ? 毛並みが尋常じゃないくらいきれいだし」


 信乃も口には出さないものの、雨晶を買うと言って、なんの躊躇いもなく札束を渡そうとしてきたことを思い出す。あの羽振りのよさは、普段お金を使わない信乃にとっても異常に感じた。


「紗絢、よくそこまで観察できるね」

「陽生さまが観賞用として完璧すぎるのよ」

「はぁ」


 生返事をしているにも関わらず、紗絢は興奮気味に続ける。


「それでね、陽ノ国って、もうすぐ第二王子の婚礼の儀があるらしいのよ。お相手は最も権力の強い豪族の娘で、今、他の豪族たちがこぞってお祝いの品を用意してるんですって」

「ちょっと。そんな話どこで聞いたの」

「お父さま。昨日、ちょうど陽ノ国から帰っていらしたのよ」


 紗絢の父は髪結士かみゆいし、母が髪切士かみきりしである。


 髪切士。


 初恋を終えるまで、少女たちは毎月決められた日に髪切士のもとで髪を短く切り揃えるというのが、雨ツ国のしきたりだ。つまり、なくてはならない職業のひとつである。

 そして母の初恋の相手が父であるが故、彼女は未だに短髪を維持している。

 短髪の女性というのは、無条件で少女たちの憧れの存在となる。

 信乃も物心ついたときから紗絢の両親にはかわいがられているし、母親の紗来さくらには毎月髪を切ってもらっている。

 一方で髪結士は、髪を結う以外に、買い付けや雨晶の販売の為に他国へ赴くこともある。父親の瀬名せなは、定期的に陽ノ国へ行っているのだという。


「どの豪族も、次はうちだ! って取り入る為に必死らしいわ。なんでも陽ノ国って、第一王子より第二王子の方が人気が高いそうなの。だから陽生さまも、実はその品物を探してるんじゃないかしら。だって、雨晶なんてぴったりじゃない?」

 どうやらこの話をしたくて、紗絢は工房を訪ねてきたようだった。


(ということはあの雨晶も実は祝いの品になったりして)


 ――あの陽生の喜びようが演技だとして。


 削ることはできなくても置物くらいにはできるかもしれない。贈り物としては上々だろう。

 信乃は自らの仮定に、何故だか胸の辺りがちくりと痛んだ。

 平然を装い、興味のないふりをして紗絢へ苦笑いを返す。


「あくまでも推測の話でしょ」

「つまらないわね、もう」


 紗絢が外へ出て行く足音。話すだけ話して、満足したようだ。

 鉛が流れ込んでくるかのように心が重たい。

 陽生のことを考えたくないのに、気づくと考えている自分がいる。信乃が大きく溜息を吐き出したときだった。


「きゃっ!?」


 聞いたことのない紗絢の悲鳴。そして複数の足音。

 ただならぬものを感じて、信乃はかまどの火を消し、棚の隣に立てかけてある短刀を持って外へ飛び出す。


「紗絢っ?」

「信乃! 逃げて!」


 紗絢は黒装束の人間に捕らえられていた。数は全部で五人。

 躊躇いなく信乃は鞘から乳白色の刀を引き抜く。

 その刃が『雨』から創られている『雨刀あがたな』は曇天でさえも輝きを衰えさせることはない。


「紗絢を離せっ!」


 信乃が短い助走から勢いをつけて地面を強く蹴り跳び上がる。そのまま紗絢の腕を掴んでいる黒装束へ蹴りを喰らわせた。まさか黒装束も立ち向かってくると思わなかったのだろう、勢いよく後方に吹っ飛ぶ。

 紗絢の腕に巻かれた太い縄を雨刀で割くようにして切ると、信乃は自らの後ろに紗絢を隠す。残りの四人と距離を開けながら対峙するかたちとなる。


「こんなところまで盗賊が来るなんて、なかなかがんばったじゃない」


 信乃は精一杯の虚勢を張る。

 濃い霧に囲まれている雨ツ国には、そもそも他国から賊が侵入してくることが不可能に近いのだ。

 雨刀での対人戦などほぼないに等しい。

 すると、いちばん離れたところにいる黒装束が、嘲るかのようにゆっくりと手を叩いた。


「面白いことになりましたね」


 恐らく、賊の首領だろう。

 信乃は小声で紗絢へ話しかける。


「……紗絢。すぐに館へ戻って、爺さまに報告して」

「でも」

「お願い。紗絢を守る余裕なんてないから。行って」

「……分かった。信乃、負けないでね……」


 背後の紗絢の声は明らかに震えていた。涙ぐんでいるのだろう。

 走り去った気配を確認して、信乃は呼吸を整える。

 雨刀を構え直して、吠えた。


「さぁ、どこからでもかかっていらっしゃい!」

「いつまでそんな強気でいられますかね? やってしまいなさい」


 信乃は部下らしき三人に囲まれる。体格からして明らかに筋肉量の多い成人男性だ。

 紗絢が長老に報告するまで時間を稼げればいい。どこまで通用するか分からないけれど、雨晶を奪われる訳にはいかない。

 信乃が意志をかためたときだった。

 がっ。

 黒装束に容赦はなかった。後ろから羽交い締めにされて、口元に布を当てられる。どんな菓子よりも甘ったるい匂いが信乃の体内に侵入してくる。


(しまった……!)


 そのまま、信乃はがくっと頭を落として意識を失った――

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