はじめての乗馬


 信乃と陽生は、揃って館の入り口まで戻ってきた。

 純白の馬が主人を見つけると嬉しそうに嘶く。


「わっ」

「大丈夫。ハルは大人しいから」


 陽生が艶々とした馬の背中を撫でる。並ぶと主人より背の低いこの馬は、ハルという名前らしい。

 額や鼻、頬、口元には黒色の革紐が装着されている。胴には分厚い装飾布が敷かれ、さらにその上に人間が乗れるように椅子のようなものがついている。

 瞳は陽生と同じ柘榴色。

 ほぼ同じ高さで視線が合って、信乃は一歩後ずさった。自分より大きな動物を目にするのは初めてなので、どうしても恐怖が先に立ってしまうのだ。

 ハルの嘶きに気づいて、信音が入り口まで出迎えに来る。


「戻ってきてたのか!」


 まず信音はこっそりと信乃に耳打ちしてきた。


「三年漬け、どうだった?」

「酸っぱいのにまろやかで美味しかったよ」


 案の定、まずは梅干しの話だ。

 信音は満足そうに頷いてから、陽生に顔を向けた。両手を腰に当てて笑う。


「陽生。信乃のおてんばっぷりに振り回されていないかい?」

「ちょっと、兄さま!」

「おてんば?」


 陽生のなかでは信乃とおてんばという単語が繋がらないらしく、きょとんとした表情になる。


「その様子だとまだ人見知り真っ最中か。信乃は昔っから、人見知りをする期間が長いからな。慣れてくるとなかなか面白いぞ。小さい頃なんて、お腹が空いたからって木の実を食べる為に大木に登っては降りられなくなってぴーぴー喚いていたりしたな。段々ひとりでも降りられるようになった上に、どの木の実が美味しいか解説してくれるようになったけれど」


 信音は重大な秘密を打ち明けるように少し溜めてから、続けた。


「で、最終的についたあだ名が、


 ぶっ。陽生が堪えきれず噴き出す。

 つぼに入ったようで肩を震わせているので、信乃はふたりを交互に睨みつけた。

 陽生が目に溜まった涙を拭う。それから、再びハルを撫でた。


「そんなにおてんばなら大丈夫かな。工房をみせてもらったお礼に、乗馬を体験してもらおうと思って戻ってきたんだ」

「乗馬! 面白そうだ」


 先に反応したのは信音。表情がきらきらと輝く。


「是非、信音も挑戦してみてくれ。面白さは保証する」

「だったら僕もたっつけ袴を穿いてくるから、先に中庭へ移動しておいてくれないか? 信乃、案内は任せた」


 信音が軽い足取りで館へ消えていく。

 こっそりと陽生が信乃に尋ねてきた。


「……山猿って呼ばれているのか?」

「昔の話です!」


 勢いづいた反論に陽生が笑いをかみ殺す。

 信音が披露した話だけではない。川で魚のつかみ取りをしては火を起こしておやつにしていたこともあるし、追いかけてきた野犬を木に激突させて退治したこともあるが、話せばさらに印象づけられてしまうだろう。

 信乃は館の左側を指差して叫んだ。大股で歩き出す。


「陽生殿、こちらから中庭へ行きますよ!」

「殿、は要らないのにな」

「早くしてください、陽生『殿』」


 陽生もハルをつれて信乃の後に続く。

 中庭は、大広間の縁側から広がっていた場所だ。乗馬には適度な広さがあってちょうどいい。

 中央にハルを留めて、陽生はぐるりと庭を見渡した。


「塀のように咲いているあの青紫の花は何?」

竜胆りんどうのことですか?」

「竜胆。彼岸花とは真逆に見えるな。優しい感じがする」

「根が胃腸薬にも使われるので、あながち間違いではないかと。彼岸花は、毒ですから」

「……彼岸花は毒になるのか」

「はい、球根が。なので、食用にはしません」


 毒という言葉に一瞬曇った陽生が噴き出す。


「どうかされましたか?」

「いや、食用かそうでないかが判断基準なんだな、と思って」

「……!」


 信乃が弁解しようとしたところで、着替えた信音が縁側から降りてくる。


「お待たせ」


 そして三人での乗馬体験が始まった。

 陽生はハルの左側に立つと、軽やかに乗ってみせた。


「まずは手本を見せるよ。手綱をしっかりと持って、鐙に足をかけて、こう乗る。驚かせないように、静かにしなやかに」

「おぉ!」


 仕草だけの説明に、信音は興味深そうに手を叩く。最初こそ手こずったものの見事乗馬して、陽生の指導のもと庭をぐるりと一周した。

 信乃はその様子を見ながら、料理以外で久しぶりに兄の笑った顔を見たような気がしていた。

 雨ツ国に兄と歳の近い男性は少ない。他国の客人とはいえ、友人のような関係の者ができて嬉しいのかもしれない。

 信音は信乃たちのところまで戻ってくると慎重にハルから降りた。

 息を弾ませ、瞳を輝かせている。


「すごく楽しい! 視界が広がって面白いぞ。信乃も乗せてもらってごらん」


 どうぞ、と陽生もハルに向かって手を伸ばす。しかし肝心のハルは信乃に対して好意的に見えなかった。


(う、うーん?)


 おっかなびっくり、信乃は手綱に手をかける。陽生に体を支えてもらって、鞍にまたがった瞬間だった。


「きゃあっ!」


 ハルは怯える信乃のことを侮っていたのかもしれない。

 急発進。信乃の重心が崩れる。ハルが両の前足を大きく上げると、ぱっと手綱から信乃の手が離れる。その勢いのまま信乃は空中に放り出された。

 見事な放物線を描いて、景色がぐるりと回る。

 視界だけではなくて世界が回転するのを、信乃はゆっくりと見ているようだった。


(あ、地面に、落ちる——)


「信乃!」


 信音と陽生の声が重なる。

 驚きすぎて信乃は声を上げることもままならない。


 どさっ。


 そして信乃の体を背中から受け止めてくれたのは、地面ではなくて陽生だった。


「ハル!」


 信乃を振り落としたハルは主人の呼びかけに立ち止まり、とことこと戻ってくる。


「なんてことをするんだ」


 背中越しの陽生の声は落ち着いているようでも、怒りと覇気を孕んでいた。

 しゅん、とハルがうなだれる。

 信乃も、自分に言われた訳でもないのに全身を震わせる。叱責は耳にして心地いいものではない。


「信乃。痛いところはないかい」


 信音が駆け寄ってきて、信乃の顔を覗きこんだ。

 眉が下がって不安そうにしている。信乃へ手を伸ばすと前髪をかきあげたり袖をまくったりして、怪我がないか確認してきた。


「大丈夫。ちょっとびっくりしたけれど」

「申し訳ない!」


 今度は大声にびっくりして信乃が振り向きつつ陽生から体を離す。

 ハル以上にうなだれているように見える陽生は、地面に頭までつけて謝罪してきた。


「こんなこと今までなかったんだ。すまない……」

「顔を上げてください。怪我だってしていないし、たぶん、わたしがおっかなびっくりだったからからかわれたんだと思います」

「でも」

「大丈夫ですよ。山猿なんで」


 ようやく陽生は顔を上げた。

 信乃の平然とした様子を見て、陽生が胸を撫でおろす。

 そして信乃だけが立ちあがった。


「わたしはお水を飲んでくるので、ふたりで続けていてください。ハルのことも怒らないであげてくださいね」


 ふたりの言葉を待たずに信乃は縁側から館のなかに入る。炊事場まで駆け足で向かい、勢いよく蛇口を捻ろうとするも、何もできずその場にへたり込んだ。


「び、び、びっくりしたぁ……」


 取り繕って平静を装っていた、緊張の糸が一気に切れた。

 落馬したからではない。

 一日に二回も抱きとめられてしまったからだ。しかも二回目は背中から受け止めてもらった。最初に躓いたときよりも、しっかりと。

 ひとりになってようやく心臓の鼓動が早鐘を打っていることに気づく。全身が熱い。


(なに、これ……?)


 なんとか蛇口を捻って、両手で掬って水を口に含む。冷たい水が体のなかを通っていくのがはっきりと分かった。

 陽生といると調子が狂う。他人といて、こんな風になるのははじめてのことだ。


「……やっぱり、極力近寄らないようにしよう……」

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