雨ツ国のしきたり


「本当にすみません……」


 縮こまって反省しているのは信乃の方だった。


「いや、こちらも何故だか男性だという思い込みがあったので。申し訳ない」


 痕こそ残らなかったものの、客人の頬を札束ではたいてしまった。信乃の頭は反省の念でいっぱいになっていた。

 雲は分厚いものの、雨は止んでいる。

 ふたりは川辺に座っていた。

 信乃は両膝を抱えて。陽生は薄墨色の小袖の裾をまくって、両足を川に突っ込んでいる。尋ねたところ、着てみたくて信音から借りたのだという。


「紗絢殿との仲睦まじさから、恋人同士なのかと勘違いしていました」

「まさか。紗絢とわたしは幼なじみで親友です」


 しかし並んでみれば信乃は少年に見えるかもしれない。がくりと肩を落とす。


「信音から昼食を預かってきたので、食べましょうか」


 いつの間にか『殿』が取れている。信乃の知らぬ内に陽生のなかでは親睦が深まっているようだった。

 陽生が膝の上で風呂敷包みを開く。竹かごのなかには海苔で巻いたおにぎりが整然と詰まっていた。三人分用意してくれていたようで明らかに数が多い。

 普段の信乃は食事も摂らず作業をしているのに、食べ物を見ると急に食欲が湧いてくる。


「それなら緑茶を淹れますね」


 信乃は立ち上がって、服についた草を払う。

 すると身長差の逆転した陽生が、信乃を見上げてきた。


「信乃殿のことも、信乃、と呼んでいいですか? おれのことは陽生あきおと」


 整った顔立ち。強い瞳が、信乃を射貫く。

 信乃には拒否する方法が分からず視線を逸らした。


「ど、どうぞご自由に」


 くるりと踵を返して、信乃は工房へ駆け足で戻った。

 火廣金製ではないふつうのやかんに、蛇口からひねって出したふつうの水を入れて、沸かす。

 はぁ。信乃は大きく溜息を吐き出した。

 客人だから無碍にはできないもののなんとなく苦手だ、というのが第一印象から変化した、陽生に対する印象。

 どうも調子が狂うのは、どことなく感じる胡散臭さの所為だろうか。とはいえ、胡散臭いと感じてしまうこともなんだか申し訳なかった。

 今日は堪えて、あとは紗絢や信音に任せてしまおうと信乃は心から思うのだった。


 沸騰したお湯で丁寧に緑茶を淹れて、お盆に載せて川辺へ戻る。


「お待たせしました。どうぞ」

「ありがとう、信乃」


 何故だか悲鳴を発しそうになるのを抑えつつ、より距離を取って信乃は座り直した。

 ふたりの間には竹かご。信乃はおにぎりを手に取って、両手で持つ。


「いただきます」


 すっかり冷たくなってはいるものの握り加減が絶妙なおかげで、ご飯は口のなかでほろほろとほぐれた。

 具は大きな梅干し。信音が趣味で漬けているものだろうから、帰ったら味の感想を訊かれるにちがいない。


「菜めしか。塩加減も握り具合も完璧。あぁ、美味い」


 陽生の食べているおにぎりとは具が違うらしい。満足そうに頬張っている。


「信音がつくったと言っていたけれど、次期首長自ら料理をするなんてすごいなぁ」

「すごい、とは?」

「料理は、普通なら召使いがつくるものだよ。少なくとも雨ツ国の周囲四大国はそう」


 信乃にとっては、お手伝いさんはいても料理が趣味の信音は炊事場にいるときがいちばん楽しそうに見えるので考えたことのない話だった。

 陽生がふたつめのおにぎりに手を伸ばす。


「……そうか。長老の孫娘というと、陽ノ国なら王女にあたる。着飾ってにこにこしているのが当たり前だと思いこんでいたから、気づかなかったのかもな」


 途中から信乃が女性だと気づいていなかったことに対する弁解に変わっている。

 信乃ははぁ、と曖昧に相づちを打った。


「当たり前だと思って生きてきたことって、一度外に出てみれば案外そうでもないんだな。この国の民は自由で羨ましい」

「それはきっと、ないものねだりって感情ですよ」


 あっけらかんと雨ツ国を評してくる陽生に、信乃は苦笑いを返す。

 信乃のふたつめのおにぎりの具は実山椒の佃煮だった。ぴりりと舌に刺激が伝わる。


「たとえば雨ツ国の少女は、初恋を終えないと髪を伸ばすことができません。わたしたちは毎月決められた日に髪切士かみきりしのもとで髪を切り揃えています。初めての恋が破れたときは、髪切士と髪結士かみゆいしを前に儀式を行って、髪の毛を伸ばすことを宣言するのです。故に、短髪のまま結婚する女性は神聖視されます」

「初めて聞いた。処女信仰の亜種かな。だから、君たちは髪が短いのか!」


 信乃は頷く。


「たぶん、この国は陽生殿が想像するよりはるかに閉鎖的です」


 だってわたしの両親は――


 勢いで言葉を続けようとして、信乃は慌てておにぎりを飲みこんだ。むせそうになるのをお茶で流し込む。

 これこそ、決して他国の人間に話してはならないことだ。

 すると言い淀む信乃を気遣ったのかそれとも話題に飽きたのか、陽生は対岸を指差した。


「なぁ、あの対岸で盛大に咲き誇っている朱い花ってなんて言うんだい」

「彼岸花ですか?」

「あれは彼岸花というのか。まるで、朱ノ鳥あけのとりみたいだ。陽ノ国の守護神、燃えさかる翼を持つ勝利を告げる鳥」


 陽生は彼岸花に新たな興味を抱いて眺めている。

 手にしているおにぎりは、三個目が残り半分ほどになっていた。


(燃えさかる翼を持つ鳥? 神話かな)


 信乃の想像の限界を超えている。

 何にせよ話題が逸れてよかった、と信乃は心中で嘆息をもらす。


「おっ、晴れてきた。光を浴びるとほんとうに朱ノ鳥みたいだ」


 信乃が顔を上げると、雲と雲の間から太陽が顔を覗かせていた。ここまで晴れるのは珍しいことだ。

 陽生は雨晶を取り出し、空に翳して角度を変えながら眺める。

 透明な輝きは光を受けて美しさを増していく。それは製作者の信乃によっても滅多に見ることのできない光景でもあるので、思わず息を呑む。

 陽生がうっとりと感想を述べた。


「美しい。彼岸花が朱ノ鳥あけのとりの翼だとしたら、信乃の雨晶あまきらは、瞳だよ」

「……しまっておいてください」


 低い声で信乃は訴える。

 雨晶を譲渡したことを誰かに見られたら困るというのもあるし、手放しで褒められすぎて恥ずかしいというのもある。


(守護鳥の瞳だなんて。流石商人さま、すごい褒め言葉をくださるものだわ)


 悪い気はしないと少しでも口にすれば客人が調子に乗るのは明白なので黙っておくことにする。

 名残惜しそうにしつつも、陽生はしぶしぶ雨晶をしまってくれた。それから、四個目のおにぎりに手を伸ばす。


「そうだ。信乃は、ここで何時まで作業をする予定?」

「鍋に火入れはしていないし、特に決めていませんが」

「だったら、新しい世界を開いてみないか」

「へ?」


 いつの間にか、信乃は完全に陽生の調子に巻き込まれてしまっているのだった。

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