雨晶の工房
*
照葉樹林に挟まれた舗道を登っていき、開けたところに建つ平屋と、流れる小川。
対岸の土手には彼岸花が狂ったように咲き誇っていた。その鮮やかさは川辺に紅の軌跡を描いているようであり、まるで血飛沫のようだと称する者もいる。
信乃自身は彼岸花が好きだ。
季節のある雨ツ国では気候に合わせてさまざまな花が咲く。目でも鼻でも楽しめるし、品種によっては蜜や果実も美味しい。
一方で、雨ツ国は日照時間が少なく、たいがい曇っている。今日も朝から雨がしとしとと降っていた。
時刻を知るには太陽の位置ではなく時計が適切だ。壁時計を確認して、信乃は工房内を見渡す。
「とりあえず土間は掃いたけれど……」
間もなく朝四ツ時。約束の時刻を迎えようとしている。
雨のにおいとわずかに残る土埃が信乃の鼻を刺激してくしゃみが出た。
昨晩の宴のあと、陽生は館の客間に宿泊した。しかし一つ屋根の下とはいえ信乃には信乃の生活がある。
朝ご飯は共に大広間で食べたものの挨拶以外に言葉を交わすことはなく、信乃は工房に来ていた。陽ノ国の旅商人は紗絢が連れてくるだろう、と考えてのことだ。
紗絢は陽生が伊達男だと浮かれていたが、信乃にとっては正体の分からない恐怖が先に立っていた。関わらないで済むなら極力関わらないでおきたい。
外に出ると、静かに雨は降り続いていた。
雨ツ国に生まれた人間の性か、加工士を目指しているからか、信乃は雨も好きだ。濡れることも厭わず、顔を上に向ける。
雨は恵みだ。
信乃にとってはその身に受けるだけで、生きていることを強く感じられる。柔らかな水滴を肌に感じ、自ずと笑みが零れた。
すると。
「あの……信乃殿?」
信乃は声の方を見て、思わず「なんで」と呟いてしまった。
平屋の前に立っていたのは、薄墨色の小袖を着て、浅葱色の和傘を差した陽生だけだったのだ。
陽生もまた、傘を差さず雨を受けている信乃に対して、何故という表情を向けている。
「あ、あの、紗絢は?」
「急遽家の手伝いを頼まれたそうで、この舗道だけ案内して帰って行きました」
紗絢のばか、と口に出しかけて飲みこみ、信乃は取り繕うように口角を上げる。
「……ようこそお越しくださいました」
「世話になります。作業の邪魔はしないように極力努めますので」
背丈でいえば陽生と信音に差はない。
しかし陽生は堂々たる体躯のおかげで、信乃にはとてつもなく大きく感じた。耳先が尖っていることも畏怖する原因のひとつかもしれない、とも考える。
昨日玄関で目にした、大きな革靴はやはり陽生のものだったのだ。
「地味な作業です。ご期待に添えられるかどうか」
「ものがどのように創られるかを知るのは、旅商人には必修科目のようなものです」
「陽生殿は、
「はい。一度だけ。非常に純度の高くて美しいものだと認識しています。その輝きは
初めて微笑む陽生をこわくないと感じたのは、雨晶を、——雨ツ国を褒めてくれたからだろうか。
信乃は軒下にある水晶の
「あの瓶に溜まっている雨を使います。瓶は水晶でできているので、不純物を取り除いてくれるのです。どうぞこちらへ」
それから陽生を工房へ招き入れる。
一応、距離を取るのは忘れない。
陽生は律儀にも一礼してから足を踏み入れた。
「失礼します」
かまどの上には
「この山の木々を薪にして燃やしています。火廣金の鍋で結晶化するまで弱火で煮詰めていくのが第一段階です。この量なら一晩くらいかかります」
「塩づくりに似ていますね」
「そうかもしれません。ほぼすべての加工士は合同で工房をかまえていて、これよりも大きな釜で炊いて作業をしています。因みに、雨から薬をつくるのもほぼ同様の工程を辿ります」
首長の孫娘ということで配慮されたのかどうかは定かではないけれど、信乃は半人前のうちから工房をあてがわれている。しかし日常的に飾りとして用いられる雨晶の多くは共同生産だ。
陽生が両手鍋に近づいたので、信乃は気づかれない程度に少し離れる。
火入れしていないし、見ても面白いものはないだろうと信乃が思ったときだった。
「これは」
「どうかされました?」
「オリハルコン……」
「え?」
陽生は左手を顎に当てて、じっと両手鍋に見入る。確認をしているようだ。
「火廣金というのは陽ノ国でいう『オリハルコン』のことでしょう。非常に希少な素材で、上級の剣や盾、鎧などに用いられます。オリハルコンがまさか鍋に使われているとは。水晶といいオリハルコンといい、雨晶の生成は興味深いですね」
「オリハルコン、ですか」
耳慣れない言葉を信乃は口にする。
たしかに、上級の武器に使うものを鍋に使っていれば驚くだろう。雨晶もオリハルコン……火廣金も知っている、というのは、かなり裕福な商人なのだろうか。
陽生の感嘆する様子からとりあえずつまらなくはなさそうだと信乃は判断する。
距離は取りつつも、客人はもてなさなければならない、と思ってはいるのだ。
「結晶化した雨はいびつなかたちをしているので、この水晶のやすりを使って整えます」
説明を継続する。
信乃は長机の上に置いてある根岸色の道具袋をくるくると広げてみせた。なかには目の粗さが異なる五本のやすりが入っている。
「……まぁ、それが苦手で、よく失敗させてひびを入れてしまうのですが。そうなってしまえば
煮詰めと削りは、雨晶の基本技術だ。そのどちらかが不得手であれば加工士として一人前とはみなされない。
「なるほど。因みに、今ここに、完成した雨晶はありますか?」
「こちらに」
信乃が奥の壁際にある、硝子窓の棚を案内する。
背丈と同じ高さの両開きの扉のなかには、だいたいが親指ほどの小ささに削られた雨晶が黒い別珍の上に丁寧に並べられていた。半球体、立方体、金剛石のように宝石を意識して削ったものもある。
結晶化した『雨』の状態に合わせて、もっとも透明度が高くなるように削っていった完成形。
それらすべてが光を反射して、断面から淡い輝きを放っている。
青のような、緑のような、時には虹のような優しい煌めき。
これが『雨晶』が美しいと評される所以だ。
「これは……!」
陽生が息を呑む。
そして、まるで稲妻に打たれたかのように動かなくなった。口をかたく結んだまま雨晶を見つめている。
昨日、人魚の鱗を目にした信乃のようでもあった。
あまりの静かさに心配になって、信乃が声をかけようとしたときだ。
「……美しい」
ようやく呼吸と共に呟くと、陽生は信乃の目の前に立った。
柘榴色の瞳がらんらんと輝き、強く信乃に向いている。呼吸は弾み、生き生きとしていた。
信乃はたじろいで後ろに下がる。
「信乃殿。こちらの雨晶を購入することは可能でしょうか」
「えっ」
突然の提案に驚いた信乃はさらに一歩後ずさる。
半人前の信乃がつくった雨晶はまだ取引をすることが許されない。来たるべき日までは蒐集品のように陳列されているが、一応、既に顔見知りの者たちによって購入予約をされているものもあるにはある。
「金なら幾らでも払います。どうかお願いします」
「ご、ごめんなさい。わたしはまだ一人前の加工士ではないうえに、きちんとした儀式を経ないとお渡しすることはできないので」
「そこをなんとか。次に雨ツ国を訪問するのはいつになるかは分からないので、どうしても今ほしいんです。長老殿には内密にします故、検討していただけませんか? それに、言い方は悪いですが、半人前の加工士殿がつくったものなら、正規の受け取り方をしなくてもいいのでは」
一気にまくしたてる陽生に信乃が目を丸くしていると、陽生は、我に返ったように照れながら咳払いをした。
「……すみません。こんなに美しいものを、生まれて初めて目にしたので」
美しい。強い言葉だ。
陽生は恥ずかしそうに右手で口元を抑えて信乃から視線を逸らす。
目の肥えているだろう旅商人から手放しで褒めてもらえたことはうれしい。
しかし、信乃はそれを隠しながら苦笑する。
「昨日見せていただいた品物も美しかったですよ。特に人魚の鱗。わたしもあのような虹色の輝きを放つ雨晶をつくれるようになりたいと思いました。雨晶も、加工方法によっては色を生むことがあるので」
「おれにとってはただの商品です。この雨晶は、商品にするには惜しいほどの価値があります。自らのものにして身につけたいのです。だめでしょうか」
「……えぇと」
信乃は心底困った。
(ここに紗絢がいてくれたら……いや、紗絢だったら売っちゃえとけしかけてくるか……)
波風を立てないように断る為に、言葉を必死で考える。
「ほとんど購入予約をされていて」
「では、予約をされていないものを教えてください」
陽生は引き下がりそうになかった。だからこそ商人という職業に就いているのかもしれない。
(だったら、『あれ』を出してしまおう)
断られるのを前提に、信乃は左端に置いていた削りのあまいごつごとつした塊を取り出す。
こぶし大の大きさの雨晶。本来ならばかたちを完成させてから並べるべきだが、あまりにも大きな結晶となったので、記念として最低限磨いて止めておいたものだ。故に、他の雨晶より輝きは劣っている。
「これならかまいません」
加工士でなければ磨けない雨晶だ。宝飾品としての価値は、殆ど、ない。
陽生はじっと雨晶のかたまりを観察している。
信乃の頭のなかで陽生が残念そうに断ってくる姿を想像して、返事を考えようとしたとき。
「ではこれで。
「えっ」
信乃が言葉を返す前に、陽生は懐から紙幣の束を取り出した。
陽ノ国の通貨、
見たことはあっても、束で見るのは初めてだった。
「売ってくださると言ったでしょう?」
陽生のしたり顔。信乃はうまく乗せられたことに気づいたが、時既に遅し。
陽生が信乃の掌から両手で恭しく雨晶を持ち上げる。
「金剛石より軽いんですね。そしてこの透明度……。ありがとうございます。大事にします」
そしてうれしそうに、陽生は雨晶を眺める。
少年のように破顔してひとしきり輝きを確認すると、厳かに絹製の袋にしまうのだった。
その絹袋も高級そうなものだ。
慌てて信乃は札束を突き返す。
「おっ、お金をいただく訳にはいきません。お譲りしてもいいですが、わたしが善意で差し上げたということにしていただけませんか」
「いやいや。こんなすばらしいものを無料でいただく訳にはいきません」
陽生が両の掌を信乃に向けて一歩後ろに下がった。
今度は信乃が食い下がる番となる。冷や汗を浮かべながらまくしたてた。
「雨ツ国では貨幣に大きな価値を置いていないので、かえって困ります。それに差し上げたことにすれば、もし爺さまに知られても言い訳が立つと思うので」
言葉を続けようとしたときだった。
一歩進もうとしたところ、掃きそびれていた小石につまずいて、信乃の姿勢が崩れる。
「きゃっ」
「信乃殿!」
ばっ。
倒れかけた信乃を、陽生が両手で受け止めて支える。
陽生の胸板に支えられて信乃の顔が真っ赤に染まる。家族以外の男性に触れたのは初めてだ。慌てて身を離すと、対照的に陽生の表情は呆然としたものになっていた。
陽生が、信じられないものを見ているかのように呟く。
「……信乃殿は、女性だったのですね……」
「!」
とっさに信乃ができたのは、勢いよく札束を振り上げることだけだった。
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