美しいという感情

「それとこれとは別。陽生あきおさまは観賞用。信乃だってそう思うでしょう?」

「うーん」

「ちょっと、信じられない。ほんとうに『雨』以外に興味がないのね」

「そんなことはないけど、かっこいいっていうか、なんというか」


 怖いと思った。

 あんなに優しく微笑んでくれたのに、どうしても紗絢の感想に同意できない。

 信乃は喉元まで出かかった言葉を飲みこむ。

 するとちょうどよく炊事場から細身の青年が声をかけてきた。


「信乃。紗絢。ちょうどよかった、これを運んでくれ」

「信音さま!」


 紗絢の表情が花の咲くように綻ぶ。

 信乃の兄の信音。妹よりも背は頭ふたつ分高く、碧色の髪の長さは胸元まであり、後ろでひとつに束ねている。墨色の地に白のみで花の絵が描かれた柄は客人をもてなすときの小袖だ。今はその上に白い割烹着を被って、頭には三角巾も身につけている。

 炊事場には立派に盛りつけられた大皿料理が並んでいた。山の幸や川魚をふんだんに使ったご馳走だ。冷たいものから温かいものまで、空腹を刺激する香りを放っている。


「兄さまったら、急な客人によくぞここまで」

「……また、腕を上げましたね」


 仕出しと見間違う程の出来に紗絢が感嘆を漏らす。


「まさか。お手伝いさんたちだけじゃ足りなくて、近所総出だよ。数年ぶりの客人だし、食材提供から片づけまでのどこかひとつでも手伝ってくれた人間は宴に参加していいって爺さまが言うもんだから、さっきまで炊事場はひっちゃかめっちゃかだったんだ」


 その場にいる数人が信音の言葉に大きく頷いている。

 とはいえ料理好きな信音が指揮を執ったのは明らかだった。


「なるほど。だからこの量」


 大広間なら二十人位は余裕で入れるだろう。一晩じゅう宴会をする可能性もある。

 こっそりと信乃は信音に尋ねた。


「……母さまは?」

「……来客時に様子を見に行ったけれど深く眠っていたよ」


 そう、と信乃は呟く。

 それからしっかりと手を洗うと、今の会話はなかったかのように大皿を両手で持ち上げた。ずっしりと重たいので慎重に運ばなければならないだろう。


「とりあえず運べばいいの?」

「うん。任せた。それと、爺さまは、僕と信乃が揃ったら正式に紹介するって言ってたから」


 紹介。今し方、名を名乗っただけでは足りないらしい。


(……それもそうか)


 心のなかで信乃はひとりごちる。

 まだ『雨』の話をしていない。おそらく、陽生という行商人にとってはそちらが本題だろう。



 いつの間にか二十人ほどが大広間に集まって座卓を囲んで談笑していた。

 大鉢を運び終わったところで、長老が信乃と信音を客人の前に並べて立たせる。


「改めて、孫の信音と信乃です。信音は歳なので十八、陽生あきお殿とは同い年ですな。その三歳下が信乃です。ふたりとも『雨』の加工士となる為に修行中の身です」

「『雨』の……!」


 陽生が興味深そうに目を丸くした。

 雨ツ国が小さくも独立を認められている最大の理由。それこそ『雨』の

 他の国では絶対になし得ることができない加工は、特別な技術と、特殊な道具。それから、気候条件だと考えられている。

 生み出されるものは、たとえば永遠に輝きの衰えない宝石。いかなる病気もたちまち治癒できる薬。どんな鋼よりも、強固な武器。


「信音が、信乃がの加工士を目指して修業に励んでおりますが、儂から言わせればまだまだ一人前には程遠いです。ただ、年代も近いですし話は合いやすいかと。もし陽生殿が『雨』について知りたいことがあれば、孫たちに尋ねてみるとよいでしょう」

「ありがとうございます」


 陽生が長老に向かって頭を下げた。このふたりの間である程度話が進んでいたようだ。


「そしてあたしが信乃の親友の紗絢です。お見知りおきを」


 紗絢が信乃の後ろから、ぴったりとくっついた状態で顔を出す。


「ちょっと、紗絢」


 親友の振る舞いが長老に怒られやしないかと信乃は焦ったが、長老は特に咎めることもなく、三人を自らと陽生の間に座らせた。上手に座する長老の隣に信乃、紗絢、信音、陽生という並びで着席する。


「陽生殿、酒は嗜まれますかな?」


 雨ツ国では齢十八で成人と認められ飲酒が解禁されるが、国によって線引きは曖昧だ。


「いえ。あまり得意ではないので、酒以外でお願いします」

「では、すもも蜜の酢割りは如何かな。今年は李が豊作でして」

「李、ですか……。頂戴いたします」


 一瞬、陽生の眉が動く。


 信乃は違和感を覚えるが、他に気づいた者はいないようだった。


 信音が大きな氷の入った細長い硝子の水呑みに二種類の液体を注いだ。桃色に透明な炭酸が混じり、しゅわしゅわと細かい泡が立つ。隣に座っている陽生に差し出すと、陽生は両手で恭しく受け取った。


「ありがとうございます、信音殿」

「二杯目以降は、甘さと酸っぱさの加減をお好みにされるといいですよ」


 信乃と紗絢も同じものを自らの好きな配合で注ぐと、李の香りが立ちのぼる。甘さを強めにしているうちは子ども扱いをされてしまうのだが、ふたりとも甘い方が美味しいと信じている。

 長老と信音は専用の碧色をしたおちょこに透明な酒を注いでいた。


「さぁ、歓迎の宴とまいりましょう」


 長老が両手を叩くと、大広間全員の雑談がぴたりと止まり、視線が集中する。


「乾杯!」


 杯が交わされると同時に賑やかさが戻ってきて、信乃たちもその一部となる。

 とはいえ、紗絢が頬を赤らめながら信音と陽生に積極的に話しかける一方で、信乃は黙々と鮎の塩焼きをほぐしていた。

 ちらりと客人に視線を向ける。


 巨人族ではなかったものの、陽生の体格は雨ツ国で暮らすどの男性とも違う。

 偉丈夫、という表現が適切のように思えた。信乃の瞳には、信音が草食動物だとしたら陽生は肉食動物の類に映るのだ。

 そんな陽生は節くれだった指で繊細に沢蟹のから揚げを解体している。


「ねぇ?」

「へ」


 すると突然、紗絢が話を振ってきたので、信乃は間の抜けた声を返してしまった。

 いつの間にか会話に巻き込まれていたらしい。


「聞いてなかったの。陽生さんが扱っている商品を見たいよね、って話よ」

「あ、あぁ」

「今回は主に宝飾品を持参したとおっしゃるから、信乃にとっては勉強にもなるでしょう?」

「見たいです!」


 即答は、宝飾品という言葉に心が揺れたから。

 また視線が合って微笑まれ、信乃はぎこちなく笑い返した。


「承知しました」


 陽生は濡れた布で指を拭くと立ちあがる。それから白い絹の手袋をはめた。

 大広間の隅に置かれていた黒く艶光りする直方体の箱を縁側へ移動させる。幼児くらいの大きさの箱は、左右交互に引き出せる五段の重箱のような造りをしていた。それぞれを床の上に置いて見せてくれる。


「どうしたどうした?」

「御客人が商品を見せてくれるってさ」


 紗絢を筆頭に信乃や数人が縁側に移動して覗きこむ。なかには酒を手にしている者もいた。

 陽生の隣で真っ先に歓声を上げ、紗絢が手を叩いた。


「すごーい!」

「これらは陽ノ国でも人気の宝飾品です」


 黄金に輝く透かしの腕輪。血色の宝石がはめ込まれた指輪。色とりどりのさざれ石が揺れる簪。どれもがきらびやかで、信乃にとっては初めてで、眩しすぎるものだった。

 全身が震える。

 信乃は言葉を発する代わりに唾を飲みこむ。

 そして、ひときわ目立つ髪留めに目を奪われた。

 それは掌くらいの大きさで、白金の縁取りに収まっている楕円の宝石は、ひとつに定まらない色彩を放っている。まるで表面で色が遊んでいるように、見る角度を変えると表情もがらりと変わる。赤。青。緑。黄色。どの色でもなく、すべての色がたゆたっていた。

 こんな色を、光を、信乃は生まれて初めて知った。

 見ているだけで吸いこまれて光の一部になってしまいそうだ。溶け込んでしまったら宝石なのか自分なのか分からなくなってしまうとしても拒む理由はないと、心が訴えている。

 信乃の視線に気づいたようで、陽生が信乃に声をかけてきた。


「お目が高い。こちらは、虹色石のブローチですね。この大きさはまず市場に出回らないので、富豪の間では『人魚の鱗』と呼ばれ高値で取引されています」

「人魚の、鱗」


 促されたものの、信乃は、あまりの目映さに触れることができなかった。

 陽生が信乃に問いかけてきた。


「信乃殿は、『雨』を加工してどのような宝石をつくっているのですか?」


 すると紗絢が信乃の背後から両肩を抱く。

 不意に陽生と対面するかたちになるも、答えたのは紗絢だ。


「まだまだ失敗することも多いけれど、信乃がつくる『雨晶あまきら』は歴代のどの加工士よりも透き通っていて美しいと評判なんですよ」

「ちょっと、紗絢!」

「いいじゃない、ほんとのことなんだから」

「なるほど。是非とも、拝見してみたいものです」

「でしたら明日、信乃の工房を見学してはいかがですか? あたしもお供いたします。ねっ、信乃も名案だと思うでしょう」


 名案とは思わない。そう反論しようとするも、先に陽生が頭を下げてきた。


「信乃殿がよければ見学させていただけませんか」

「ほら! 陽生さんもこうおっしゃってることだし!」

「は、はい……」

「ありがとうございます」


 押し切られるかたちとなってしまい、信乃は背後の紗絢を睨む。すると片目を瞑ってみせた。工房見学にかこつけて、紗絢が陽生と過ごしたいだけであるのは明白だった。

 今は、のれんに腕押しだ。後で文句を言ってやろう、と信乃は言葉を飲みこみ、肩を落とすのだった。


(全然分かんない。紗絢は兄さまが好きなくせに、何をしているんだか)

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