薄水色の恋わづらひ 〜雨の少女の初恋譚〜
shinobu | 偲 凪生
第一話 秋 ~名前がなければ気づかない
雨の少女と行商人
*
*
*
しゃりしゃり。しゃりしゃり。
磨かれているのは親指ほどの大きさをした透明でいびつな塊。
碧色の短い髪の少女は、年季が入った木製の長椅子の上に右足だけ
緑がかった渋い薄茶、つまり
下唇を少し噛みながら集中している為に、額に汗が滲んでいても気に留めない。
ところが。
ぱきり。力加減を間違えてひびが入り、少女の瞳は大きく見開かれた。
「しまった……」
少女はがっくりとうなだれて、透明な塊と水晶製のやすりを長机に置く。机の上には大小さまざまの透明な塊が置かれているが、どれもひびが入っていた。
かがんで、足元の絹袋に溜まった研磨後の粉末を確認する。かすかにきらきらと
透明な塊のひびは光を反射して長机の上に色彩を生みだしていた。
少女は口元をへの字にして立ちあがると、かまどの上から金属製の両手鍋を取った。伝説の金属とも呼ばれる
土間の作業場から分厚い雲の下へ出て、大きく深呼吸を一回。
小川沿いに建つ一軒の平屋は少女専用の工房。
軒下にはやすりと同じ水晶でできた
ざぶん。
豪快に両手鍋で雨を掬う。
水面は揺れつつ少女の顔を映した。一見すれば少年とも見間違いかねない幼い顔つきだ。長い睫毛がまばたきで上下する。水面はまだ揺れながら不安げな表情は崩れない。
「しー! のー!」
遠くから声が聞こえてきて、慌てて少女は鍋を竈に置いた。
「
濡れた手を布巾で拭いて、信乃と呼ばれた少女は走ってきた親友、紗絢を軒下で出迎える。
ふたりは勢いよく両の掌を合わせて指を組んだ。お互いの右の草履には黒地に小花をあしらった柄の布が蝶々結びにされている。十歳のとき、永遠の友情を誓い合った証だ。
「わざわざ工房まで来るなんてどうしたの」
「
「爺さまが?」
そのしきたりのなかでも、紗絢の小袖は淡紅色だし、髪の毛先は少しはねて遊ばせたりしていて、個性を主張していた。それらは自分をいちばんよく見せてくれるという、紗絢のこだわりらしい。
「旅商人が来たそうなの」
つい最近まで学び舎に通っていた線の細い少女たちは、そのときと同じように手を繋ぎ、そのまま道を下っていく。
照葉樹林の間を固めてできた舗道は、小さな山の中腹にある工房とふもとの集落を最も短い道で繋いでいた。
「あー。挨拶しろってこと」
信乃は口を尖らせた。
「兄さまも?」
「
なるほど、と信乃は口のかたちだけで呟いた。
紗絢にとって、信乃の兄・信音は雨ツ
「|雨ツ国への客人なんて何年ぶりでしょうね」
雨ツ国。
四つの大国に囲まれながらも大自然と濃く深い霧に守られている小さな集落は、単一民族国家として『四大国』から承認されている。
「
「そうかもしれない。
他愛のない会話を続けながら集落に到着すると、ふたりはひときわ巨大な木造の館へ向かった。入り口が見えてきたところで、ぎょっと目を丸くしたのは住人である筈の信乃だ。
「うわっ! な、何、この生き物」
「馬、って言うんだって。荷物や人間を載せて運んでくれるらしいわ」
信乃と紗絢はまじまじと、門に太い紐でくくりつけられている馬を見た。
細いけれどしなやかな四つ足。艶やかな純白の毛並み。つぶらな瞳。上についている耳の先は、くるりと内側に曲がっている。
独特の匂いに、ふたりは少しだけ眉を顰めた。
目が合って一瞬肩を震わせつつ、信乃たちは馬を後にする。
さらに驚くことに、玄関には見たことのない黒光りする革靴が丁寧に揃えて置いてあった。横に並ぶ見慣れた
「
信乃は巨人が馬に荷を載せながら旅をしている想像をしてみたがなんともしっくりこない。そもそも巨人がこの家のなかに収まる様子が思い浮かばなかった。
「まさか」
けらけらと
笑い方から察するに
「だよね」
そして話し声の聞こえてくる大広間のふすまの前に立つ。和やかな雰囲気から、客人をもてなしているのは明らかだ。
すぱーん!
信乃が両手で勢いよくふすまを開けて宣言する。
「ただいま信乃が戻ってまいりました!」
大声に反応して座卓の向こうから客人がぱっと顔を向けた。
目が合って信乃は思わず息を呑む。
――炎のようだ。
第一印象は、燃え盛る炎。 何もかもが信乃たちとは対照的な見た目だった。
髪の色は
着ているものは小袖ではなく
雨ツ国のどの男性とも、違っていた。
「信乃」
上座に座る白髪白髭の
「客人にご挨拶なさい」
信乃の祖父であり雨ツ国の首長。周りからは長老と呼ばれて慕われている。
生まれたときから祖父は長老で、既に腰元まで白髭を蓄えていた。子どもの頃があったのかしばしば不思議に思う。
信乃は両膝と両手を床について軽く頭を下げた。
「はじめまして、信乃と申します。この度はようこそ
「
陽生の声は信乃の知るどんな楽器よりも低く、落ち着いていた。
声と同じように接するものを安心させるような微笑み。柔和な雰囲気。
しかし、どうにも信乃は警戒心を解くことができない。
「
当たり前のことではあるが先に品物は見ているという口ぶりで、長老は湯気の立つ玉露を啜った。
酒を嗜まない長老のお気に入りが、舌を火傷しそうになるくらい熱い玉露なのだ。因みに湯呑みは信乃が幼い頃につくって贈ったものである。
「さあ、信乃。信音を手伝って配膳をしなさい。今晩は宴だ。後ろに隠れて紗絢もいるね? 一緒に手伝って、夕餉もあがっていくといい」
「はーい、ありがとうございます! 行こう、信乃」
ふすまからひょこっと紗絢が顔を出して勢いよく返事をする。
紗絢は要領がいい。信乃の手を取って炊事場へ向かう様は、どちらが館の住人か分からない。
「とてつもなくかっこいい御方ね」
紗絢はうれしそうに囁いた。
「伊達男って実在するんだわ。最高」
「……兄さまを好きなんじゃなかったけ」
呆れるように信乃は笑った。
物心ついたときから、紗絢は信音の嫁になると公言してはばからない。雨ツ国では知らない者がいないくらいに有名な話だ。
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