薄水色の恋わづらひ 〜雨の少女の初恋譚〜

shinobu | 偲 凪生

第一話 秋 ~名前がなければ気づかない

雨の少女と行商人


 しゃりしゃり。しゃりしゃり。


 磨かれているのは親指ほどの大きさをした透明でいびつな塊。

 碧色の短い髪の少女は、年季が入った木製の長椅子の上に右足だけ胡座あぐらをかくように座っていた。

 緑がかった渋い薄茶、つまり根岸ねぎし色の小袖と、そこから緑を抜いた色のたっつけ袴からわずかに覗く肌は白く、翡翠ひすい色の双眸そうぼうを映えさせている。

 下唇を少し噛みながら集中している為に、額に汗が滲んでいても気に留めない。

 ところが。

 ぱきり。力加減を間違えてひびが入り、少女の瞳は大きく見開かれた。


「しまった……」


 少女はがっくりとうなだれて、透明な塊と水晶製のやすりを長机に置く。机の上には大小さまざまの透明な塊が置かれているが、どれもひびが入っていた。

 かがんで、足元の絹袋に溜まった研磨後の粉末を確認する。かすかにきらきらときらめいているのを見てから、袋の口を縛った。

 透明な塊のひびは光を反射して長机の上に色彩を生みだしていた。


 少女は口元をへの字にして立ちあがると、かまどの上から金属製の両手鍋を取った。伝説の金属とも呼ばれる火廣金ひひろかねでできている特別な鍋は見た目に反して軽く、しかし頑丈だ。

 土間の作業場から分厚い雲の下へ出て、大きく深呼吸を一回。

 小川沿いに建つ一軒の平屋は少女専用の工房。

 軒下にはやすりと同じ水晶でできたかめが置いてあり、雨が半分くらい溜まっている。


 ざぶん。


 豪快に両手鍋で雨を掬う。

 水面は揺れつつ少女の顔を映した。一見すれば少年とも見間違いかねない幼い顔つきだ。長い睫毛がまばたきで上下する。水面はまだ揺れながら不安げな表情は崩れない。


「しー! のー!」


 遠くから声が聞こえてきて、慌てて少女は鍋を竈に置いた。


紗絢さあや


 濡れた手を布巾で拭いて、信乃と呼ばれた少女は走ってきた親友、紗絢を軒下で出迎える。

 ふたりは勢いよく両の掌を合わせて指を組んだ。お互いの右の草履には黒地に小花をあしらった柄の布が蝶々結びにされている。十歳のとき、永遠の友情を誓い合った証だ。


「わざわざ工房まで来るなんてどうしたの」

信乃しの。長老さまがお呼びよ」

「爺さまが?」


 紗絢さあやの方が髪色の濃度は高く瞳も大きいが、ふたりはほぼ同じ見た目をしている。髪の長さも肩上で揃えているのは、この『国』のしきたりによるものだった。

 そのしきたりのなかでも、紗絢の小袖は淡紅色だし、髪の毛先は少しはねて遊ばせたりしていて、個性を主張していた。それらは自分をいちばんよく見せてくれるという、紗絢のこだわりらしい。


「旅商人が来たそうなの」


 つい最近まで学び舎に通っていた線の細い少女たちは、そのときと同じように手を繋ぎ、そのまま道を下っていく。


 照葉樹林の間を固めてできた舗道は、小さな山の中腹にある工房とふもとの集落を最も短い道で繋いでいた。


「あー。挨拶しろってこと」


 信乃は口を尖らせた。


「兄さまも?」

信音のぶとさまはちょうどお館にいらっしゃったから」


 なるほど、と信乃は口のかたちだけで呟いた。

 紗絢にとって、信乃の兄・信音は雨ツあまつこく公認の片想い相手なのだ。信音と紗絢が一緒にいたかどうかは定かではなくても、信音が紗絢に対して彼の妹を呼び寄せるように頼むのは自然の流れだった。


「|雨ツ国への客人なんて何年ぶりでしょうね」


 雨ツ国。

 四つの大国に囲まれながらも大自然と濃く深い霧に守られている小さな集落は、単一民族国家として『四大国』から承認されている。


紗絢さあや。浮かれてる?」

「そうかもしれない。信音のぶとさま曰く、旅商人は陽ノ国はるのくに出身らしいの。初めてじゃない? 陽ノ国の人間を見るのって」


 他愛のない会話を続けながら集落に到着すると、ふたりはひときわ巨大な木造の館へ向かった。入り口が見えてきたところで、ぎょっと目を丸くしたのは住人である筈の信乃だ。


「うわっ! な、何、この生き物」

「馬、って言うんだって。荷物や人間を載せて運んでくれるらしいわ」


 信乃と紗絢はまじまじと、門に太い紐でくくりつけられている馬を見た。

 細いけれどしなやかな四つ足。艶やかな純白の毛並み。つぶらな瞳。上についている耳の先は、くるりと内側に曲がっている。

 独特の匂いに、ふたりは少しだけ眉を顰めた。

 目が合って一瞬肩を震わせつつ、信乃たちは馬を後にする。


 さらに驚くことに、玄関には見たことのない黒光りする革靴が丁寧に揃えて置いてあった。横に並ぶ見慣れた信音のぶとのわらじよりも一回り大きい。


陽ノ国はるのくにの人間って、巨人族?」


 信乃は巨人が馬に荷を載せながら旅をしている想像をしてみたがなんともしっくりこない。そもそも巨人がこの家のなかに収まる様子が思い浮かばなかった。


「まさか」


 けらけらと紗絢さあやが笑う。

 笑い方から察するに信乃しのと大差ない想像をしていたようだ。


「だよね」


 そして話し声の聞こえてくる大広間のふすまの前に立つ。和やかな雰囲気から、客人をもてなしているのは明らかだ。


 すぱーん!


 信乃が両手で勢いよくふすまを開けて宣言する。


「ただいま信乃が戻ってまいりました!」


 大声に反応して座卓の向こうから客人がぱっと顔を向けた。

 目が合って信乃は思わず息を呑む。


 ――炎のようだ。


 第一印象は、燃え盛る炎。 何もかもが信乃たちとは対照的な見た目だった。

 髪の色は赤銅しゃくどう。肌は淡い黄褐色で、耳の先がぴんと外側に尖っている。少し吊り上がった奥二重の瞳の色は、まるで熟れた柘榴ざくろ

 着ているものは小袖ではなく貫頭衣かんとういのようなもので、黒地に金の縁取りがされていた。七分袖から伸びている両腕は太くがっしりとしていて、手も大きい。さらには、服の上からでも鍛えられた肉体であることが伝わってくる。

 雨ツ国のどの男性とも、違っていた。


「信乃」


 上座に座る白髪白髭の好々爺こうこうやが声をかけてきて、信乃ははっと我に返る。


「客人にご挨拶なさい」


 信乃の祖父であり雨ツ国の首長。周りからは長老と呼ばれて慕われている。

 生まれたときから祖父は長老で、既に腰元まで白髭を蓄えていた。子どもの頃があったのかしばしば不思議に思う。

 信乃は両膝と両手を床について軽く頭を下げた。


「はじめまして、信乃と申します。この度はようこそ雨ツ国あまつこくへお越しくださいました」

陽ノ国はるのくに陽生あきおと申します。はじめまして。少しの間ですがお世話になります」


 陽生の声は信乃の知るどんな楽器よりも低く、落ち着いていた。

 声と同じように接するものを安心させるような微笑み。柔和な雰囲気。

 しかし、どうにも信乃は警戒心を解くことができない。


陽生あきお殿は、普段は陽ノ国で行商をしていて、今回初めて国外へ出たそうだ。後で品物を見せてもらうといい」


 当たり前のことではあるが先に品物は見ているという口ぶりで、長老は湯気の立つ玉露を啜った。

 酒を嗜まない長老のお気に入りが、舌を火傷しそうになるくらい熱い玉露なのだ。因みに湯呑みは信乃が幼い頃につくって贈ったものである。


「さあ、信乃。信音を手伝って配膳をしなさい。今晩は宴だ。後ろに隠れて紗絢もいるね? 一緒に手伝って、夕餉もあがっていくといい」

「はーい、ありがとうございます! 行こう、信乃」


 ふすまからひょこっと紗絢が顔を出して勢いよく返事をする。

 紗絢は要領がいい。信乃の手を取って炊事場へ向かう様は、どちらが館の住人か分からない。


「とてつもなくかっこいい御方ね」


 紗絢はうれしそうに囁いた。


「伊達男って実在するんだわ。最高」

「……兄さまを好きなんじゃなかったけ」


 呆れるように信乃は笑った。

 物心ついたときから、紗絢は信音の嫁になると公言してはばからない。雨ツ国では知らない者がいないくらいに有名な話だ。

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