僕は方舟に君を乗せるか僕を乗せるか

衣草薫創KunsouKoromogusa

僕は方舟に君を乗せるか僕を乗せるか


「君は方舟に誰を乗せますか?」


突然、君が僕に訊いた。名も姿も知らぬ君に。知らないけれど、誰かに似ているような気がする君に。僕は真剣に考えた。駅の近くにあるベンチに座って、でてきたリアルな映像を、まるで映画を見ているような感覚で、意味があるのかないのか分からないけど柄にもなく真剣に...。


―――・・・


何もない地平線、足の数ミリが入る水に浸された水面を歩く。洪水にしては浅すぎるが、これだけ広い一帯にもなると大量の水がここに集まっているのだと感じる。裸足でポチャポチャと音を聞きながら歩く。どんなに歩いたって同じ風景なのだから仕方がないが、人は突っ立っている方が辛いものだ。歩いていると遠くの方に小さく方舟が目に映った。遠近法で小さく見えているそれの実際の大きさに興味を持って、思いを馳せるのとともに足も次第に早くなっていく。走っていると体温が上がって、息切れも激しくなる。


「大きい...」


ある程度近づくと次第に足の速度も落ちてパチャパチャと足を止める。そこで出た独り言はそれだけだった。とにかく大きくて、それ以上言語化できなかったのだ。もう少し近くまで歩いてみる。船の底まで来た。木をコンコンと拳で軽く叩く。そこまでやわじゃないことぐらい一目でわかるが、触りたいという欲求と、なんだかこんな僕にとって高貴なものに触れてはいけない気がして力加減が中途半端になってしまった。


「なあ、お前は何人、人を乗せられるのか?」

『・・・。』


当たり前だが、方舟は答えない。浅い水面に数センチ浸っている方舟は、動かずに佇んでいる。


「あっ」


と、声を上げたときに気づいたのは、膝下まで上がった水面。もちろん大きな方舟には全く持って影響はない。しかし、僕は別だ。歩くためには足で水を掻かなくてはならないので少し時間がかかるようになった。僕は方舟の周りを一周するように歩いた。すると見つけたのははしごだった。方舟に乗るための入り口まで続く長いはしご。僕はこの巨大なものの中身を見てみたいと思った。はしごの一本目の木の棒に右足をかける。そしてまた両手を上にずらして左足をジャバッと水中から上げて二本目の木の棒にかける。そうやって果てしなく長いはしごを上っていく。きっと、高所恐怖症の人にとっては上りきることはかなり難しいだろう。だがしかし、僕はあいにく高いところは大の得意としている。しかも僕は方舟の中身をかなり期待に満ち溢れた前向きな心を持ち合わせている。もはや無敵。怖いものなしと言った所だ。


「すげぇー。」


長い時間をかけ、やっとのことではしごを上りきると息を吐くように期待以上の方舟のだだっ広いホールのような。いや、それ以上の方舟の空洞を目の当たりにした。僕はこの中をもっと探索したかった。けどできなかった。先ほど上ってきたはしごを見やると水面がはしごの半分まで沈んでいたのだ。


「この水はどこから流れてきているんだ?」

『ここの広い市街地に降る大雨の影響だよ!こうなりゃすぐに大洪水になっちまう!早くその大きな船に乗せてくれ!』


僕は方舟が喋ったのだと勘違いしてびっくりした。でもそうではないことはすぐに分かった。この船の反対側に列島の沖が近くにあるのだ。ここは数センチしかない水面がどこまでも続く何もない場所ではなかったのだ。確かに海の近くの市街地を中心に大雨が降り続いていることがはっきりと見える。さっき大声をだしたのは誰なのだろうかとあらゆる場所に目を配る。ガラガラで低い声。きっと年配のじいさんだと思った。けれど、目に留まったのは別の人であった。自分とあまり年が離れているように見えない少女。推定15・6歳。その人は見覚えが合った。誰だかは思い出せないが。僕はその子だけが助かってほしいと願った。まだ救える命があるのならば、家族と、親友と、恩師と、憧れの先輩と、ファンであるダンサーの男性と、それと、それと、それと...。そのときにふと思った。


「僕は生きていていいのか?」


僕は、幸せになってはいけない。そう、儂は牢屋からでたときから、ずっと同じようなことを考えていたような気がするのじゃ。


―――・・・


「久々じゃな。マレビトさん。」

「私はもうマレビトじゃないもん。正代君。」

「あぁ、こはるはあの頃から変わっとらんな。」

「正代君も変わっていないわ。70代なんて考えられないぐらいハンサムよ。」

「口があの頃と変わらずお達者でなによりじゃ。」


するとこはるは頬を膨らませて言った。


「本当のことを言ったまでよ。それよりそろそろ答えてよ。待ちくたびれたわ。」


儂は少し目を伏せてゆっくりと語り始めた。


「儂は55年前、こはるが未来からやって来る前に牢屋に入っていたのじゃ。罪を犯して、友を裏切って、親不孝者で。だから、儂は幸せになってはいけないと思いながら今まで生きてきた。何処へ行っても肩身の狭い人生じゃった。儂は、方舟に乗せるとしたら、家族と、親友と、恩師と、憧れの先輩と、ファンであるダンサーの男性、それと、こはるを乗せる。」

「正代君は乗らないの?」


儂は黙って頷いた。まるで本当に15・6歳の頃に戻ったように彼女で話している感覚で不思議な気持ちになった。これだけでも、幸せに感じて拒否したい気持ちがじわじわと染み出てくるよう。


「幸せになっていいのよ。一緒に方舟に乗りましょう?」


儂は「あぁ。」と頷いて固くなった頬を緩めて彼女に笑顔を向けた。


「君ならそう言ってくれると思ったよ。そろそろ日も暮れてきた。最後は青春時代の告白みたいに締めくくろうじゃないか。」


儂はこはるの小さくて柔らかい手に皺のよった爺さんの手で優しく包み込んだ。こんなにも違う。生まれた時代も、生きた年月も何もかも。それでも、彼女はかつて、儂が15歳の頃の自分と出会い、約束通り再開したのだ。君の世界に戻ったら僕に「方舟に誰を乗せるのか。」と訊いてくれと。


「儂はあの頃から君を愛している。方舟に一緒に乗ろうじゃないか。」


彼女は満面な笑みでこう返した。


「私も正代君のことが好きよ。一緒に方舟に乗って生き延びよう!」


―――・・・


【方舟】

⇒『ノアの方舟』(ノアのはこぶね、英語: Noah's Ark)は、旧約聖書の『創世記』(6章-9章)に登場する、大洪水にまつわる、ノアの方舟物語を題材にしてショート物語を書きました。


【マレビト】

⇒(稀人・客人)は、時を定めて他界から来訪する霊的もしくは神の本質的存在を定義する 折口学の用語


【正代】

⇒70代の老人。中学生の時に逮捕されたことがある。高校1年のときに55年後から来たこはるに出会った。


【こはる】

⇒正代が70代になったころに高校1年になった。ある場所に行くと神隠しの被害にあい、マレビトとして55年前にやってきた。そしてまた元の世界に戻ると正代との約束を守るために正代の70代の姿を探した。

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