第7話 旅立ちと迷い

氷狼村での一件は周辺地域だけでなく、中央都市部にまで影響を及ぼしていた。

当然のことながら氷狼村内部では1日も早い復興をと人々が自分にできることをただ淡々となしていた。

ただ、この雪深い氷狼村まで物資を運ぶことがなかなかできず、復興も思ったように進まずにいた。

なにしろあれだけの事件だ、しばらくは氷狼村に近づこうとする人がめっきりいなくなってしまっていたのだ。

季節も相まって完全な陸の孤島が完成してしまった。

本来であれば翡翠も瑠璃も村の復興のために駆り出されるはずであった。しかし、目の前で親友とも呼べる琥珀が倒れ、そして自身も右目の視力を失う大怪我を負っていた。救いだったのは一見して右目の怪我がわからないことだろう。

もしあの折れた刃が頭の深くまで届いてしまっていたら、失うものは視力だけではすまなかっただろう。

ゆっくりとではあるが元に戻ろうとする村人、そして村の姿に翡翠はどこか取り残されたかのような感覚を覚えるようになった。


村が元の姿に戻ろうと、翡翠という存在はもしかすると琥珀を失ったあの瞬間から時間が止まってしまっているのかもしれない。

徐々に形を成していく新しい氷狼村、その現実を翡翠は受け入れることができなかった。それが故に、翡翠自身の決断は早かった。

「俺は村を出る…」

多くを語らず、そして何を求めるわけでもなく、翡翠は氷狼村を出ることにした。

去っていく翡翠の背中を、瑠璃はただ無言で見送ることしかできなかった。

「兄ちゃんはどこまでひとりで背負おうとするの?」

兄である翡翠が自分を頼ろうとしない… 瑠璃の中でも小さな葛藤が芽生え始めていたのかもしれない。

氷狼村を出た翡翠はあてもなく、たださまようだけであった。

まだ子供と言っても差し支えない少年が、たった1人で森を抜け山を越え、そしてその日の食事は自分で調達する…自警団時代に得た経験がここにきて生きてくると言うのはなかなか皮肉なものだろう。

そんな生活を少しの間続けていた翡翠であったが、ある日転機が訪れた。

「君、1人か?」

全身を簡易的な鎧、そして腰に1振りの剣を携えた齢20程度の男が声をかけてきた。そしてその灰色の毛並みはほどよく整えられていた。おそらく犬科の獣人だろう。

まだまだ冷え込む日が続く季節に少年が森の中で1人歩いていれば誰だって声をかける。

ましてやそれがどこかしらのギルドに所属している者であれば、その正義感から見過ごすことなどありえないだろう。

「君、名前は?」

「翡翠…」

「私はフラン、翡翠はこんなところで何をしているんだ?」

当然の質問だろう。

「今夜の食材を探していただけだ。」

「今夜の食材って…家はどこ?」

「家はない。住んでいた村から出てきたから」

「家出ってことかい?とにかく体を冷やすのは良くない。うちのギルドに…」

その男性は、翡翠の手を握ろうと手を伸ばした。すると、翡翠は反射的にその手を振り払ってしまった。

「おっと」

もちろん翡翠もその男性が悪意を持って接してきたわけではないと言う事は重々わかっていた。

だが、自分の体に染み込んでしまった習慣と言うのはなかなか抜けることがない。

「ごめんなさい。」

「君のことを深く詮索するつもりはない。ついてくるかどうかも君の自由だ。」

その言葉はもしかすると、翡翠が最もかけて欲しかった言葉なのではないか…それを断る理由など翡翠にはなかった。


フランは多くを語る事はなかった。同時に翡翠を詮索することもなかった。

翡翠とフランは、森を抜け徐々に文明と言うものが色濃く広がる平野部へと出た。まばらに家が広がっている風景から、徐々に街といった風景とうつろっていく。そこからしばらく歩くと、ひときわ目立つ建物があった。

「ここが俺たちのギルドだ。」

建物を近くで見てみると、壁には補修の跡があり、扉もお世辞にも綺麗とは言えなかった。その扉はフランが手をかけるとややきしみ音を上げながらゆっくりと開いた。

「今帰ったぞ。」

フランの帰りを待っていたかのように白い毛並みの犬獣人の男性が出迎えた。

「フランおかえり。その子は?」

「あーたまたま巡回していた森の中で見つけた。どうやら訳ありみたいで」

「ほっとけなかったってわけか…うちで面倒みるとなれば、マスターの許しがいるだろう。」

「俺から事情説明してみる。」

白い毛並みの犬獣人の男性は翡翠の瞳を黙って見つめる。

「えっ…」

翡翠が気圧されるように一歩後退りをした。

「おいシオン、翡翠が怖がってるだろ」

「悪かったね、ごめんよ、翡翠くん。自己紹介がまだだったね。僕はシオンだ、よろしく」

「うん、大丈夫」

「ところで、その右目はどうしたんだい?」

翡翠はその問いに答えることができなかった。ただ黙り込んで床を見つめることしかできなかった。

「なるほど、訳ありっていうのは間違いなさそうだね。」

「どういうことだ、シオン」

いや何でもない。

「マスターは今、部屋にいるから翡翠と一緒に行ってみたらどうだい?支度は僕が全部しておくから」

「そうする助かるよシオン」

フランは翡翠の手を握るとそのままに2階へと続く階段を上っていく。フレンはどことなく感じ取っていた…先ほどよりも翡翠の足取りがどうも重たくなっていたことに。


2階に上がり長いとは言えない廊下の先にある部屋、特別飾られたわけでもないが、そこにこのギルドのギルドマスターがいた。

「マスター、失礼します」

フランが扉を開けると、その部屋は本屋書きかけの書類がいたるところに散乱していた。内装もやはりと言うべきか質素で、1ギルドを統括する者の部屋とは言われなければわからないほどであった。

「どうしたフラン?」

部屋の中央に置かれていた大きな机と大きな椅子、そしてその椅子に座するんは、このギルドのギルドマスター、全身を黒い毛並みで着飾った狐獣人のソディだ。

「マスター、実は相談が…」

「フランのことださしずめ、今連れているその子の話だろう?」

「そこまでお見通しでしたか」

さすがギルドマスターといったところだ。

「結論から言うと、うちで面倒を見ることができる。だが…」

その時の微妙な表情の変化をフランを見逃さなかった。それは翡翠も同じであった。

「うちで面倒を見るからには、その子にも刃を握ってもらう」

この言葉にフランは驚いた。

「でも…」

「今の情勢とギルドのことを考えてくれ」

フランもそのことをよくわかっていた。

ギルドの財政状況はあまり良いとは言えなかった。どんな些細な依頼でも、どれほど危険の依頼でも断ることなどを許されなかった。そうなれば、必然的に人手が足りなくなる、戦力も足りなくなる…喉から手が出るほど戦力が欲しかったことだろう。だが即戦力とも言える人材はより巨大なギルドへと流れていってしまう。フランたちが属するこのギルドははっきりって弱小ギルドと言ってもよかった。

「まだ名前を聞いていなかった。君、名前は?」

「翡翠…」

「翡翠か…いい名前だ。それにいい目をしている。」

そう言うと、ソディは翡翠の下へとゆっくりと歩を進めていった。そして翡翠の手を優しく握った。

「多少は、剣の心得があるようだな。翡翠、君はどうしたい?」

「俺は…」

フランはただその様子を見ることしかできなかった。

フランはまだ幼さの残る翡翠に武器を取らせたくなかった。

だが、ギルドの今の状況を考えればそれもやむを得ないと思っていた。それゆえに口を挟むなど到底できるわけもなかった。少しの沈黙の後、翡翠が口を開いた。

「分りました、俺も戦います。」

もし俺に力があれば…琥珀の願いを叶えることができれば…。そのために武器を取るのであれば、それは翡翠にとって本望だと言える。


「よし決まりだな。フラン、このギルドの事はいろいろ教えてあげると良い。そして明日から稽古をつけるといい。」

「分りましたマスター」

「翡翠君、今日はゆっくり休むと良い。詳しい話は明日だ。」

2人はソディの部屋を後にした。

ソディは2人が去り静まり返った部屋で無意識につぶやいていた。

「あんな幼い手に武器は似合わない。本当はいや俺たちがそんな世の中を作らなければいけないのに…」


「ここが翡翠の部屋だ。好きに使ってくれて構わない。」

翡翠が通された部屋は長く使われてないような部屋だった。

だが、ソディと話をしている間に誰かがさっと掃除をしたのであろう、細かい部分は目をつぶるとして必要最低限使えるようには清掃がなされていた。

「明日以降の事はまたその説明するから、今日はゆっくり休め。」

「ありがとう。、フラン…」

「あぁ、おやすみ」

雨風しのげる部屋で。そして自分の体を包み込んでくれるような寝具で、そして人のすぐそばで眠るということが翡翠にとっていつしか当たり前ではなくなっていた。ベッドに横になった翡翠はそれが当たり前の日常であるとすぐには理解することができなかった。

「琥珀…瑠璃…」

まどろみの中、ふとよぎるのは故郷に残していた弟、そして自分の記憶の遥か彼方に置いてきてしまった琥珀の存在だった。そんなことが頭をよぎるのは、この瞬間だけは安心して眠りにつけるという証なのだろう。翡翠の意識は音も立てることなく闇の中へと沈んでいった。

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翡翠輝石の名の下に 翠ネギ @negi08078

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