第6話:翡翠の軌跡(後)

琥珀と翡翠の健闘によりなんとか獣の侵攻は食い止めることができていた。

獣の表皮にも至る所に切り傷が見え、そこから血が見えていた。

だが、それ以上に琥珀と翡翠の消耗は激しかった。

獣の爪による裂傷により全身傷まみれ、そして服の一部が真っ赤に染まっている。

それでも村を守るという強い意志のもとで琥珀と翡翠は剣を振り続けたのだ。

自分が傷つこうと誰かのために振り続けた刃、だが限界が近づいてきていた。

力任せに切り込んだ翡翠の刃、目標が外れ肉質が硬化している部位に切っ先が当たった。

あたりに硬い音が響いたかと思うと、翡翠が持っていた剣はいとも簡単に折れた。

そしてその切っ先は翡翠の右目に突き刺さった。


一瞬の出来事だった。

敵を切りつけた瞬間、目の前が真っ暗になった。

何が起こったかわからなかった…何が起こったかわからないまま翡翠はその場に倒れ込んだ。

「翡翠!」

「兄ちゃん!」

後方で住民の安全確保にまわっていた瑠璃が、翡翠に駆け寄りそのまま抱き上げると戦線を離脱した。

「急いで翡翠の治療を!ここはオレ1人でなんとかする!」

琥珀はただ一人で敵と向かい合う。

だが全くの犠牲を払うことなくこの状況を打破できるとは琥珀も思っていなかった。

「この区域は全て放棄だ!」

この決断は自警団にとっては屈辱的なものだった。

だが、1人でも多くの人間が生き残るためには必要だった。

「これ以上は誰も傷つかせない…この命にかえてもっ!」


瑠璃は翡翠を担いだまま仮説の診療所へと向かったが、扉を開けた瞬間に瑠璃の眼前に広がっていたのは普段の村からは想像もできない惨状だった。

診療所の床はもはや血で濡れてしまい、それが誰の血なのか判断することもできない状態だった。

全身を包帯で巻かれた者、声を上げることすらできない者、かろうじて息がある者…もはや現実とは思えなかった。

到底そんな状態では翡翠の手当てなどできるわけもなかった。


診療所に足を踏み入れた瑠璃に看護役として動いて欲しいとの指令がでる。

「ごめん、兄ちゃん…」

瑠璃は翡翠に最低限の応急手当てをすると、要救護者の手当てにあたった。


この時点で戦力として機能しているのは、琥珀と瑠璃くらいだった。

前線で戦える者がほとんどいない状態で、怪我の手当ができる者も残っていない状態で…皆がもう終わりだと口々に囁き始める。

もう夜明けを迎えることすら難しい人もいただろう…そんな人の名前を手を取り必死に叫ぶ家族や友人…

その時だった…村にあの獣のものであろう雄叫びが響き渡った。このとき、村人全員が恐怖に慄いたと言われている。

瑠璃は本部を飛び出し戦線に向かった。


辺りを見渡す。

さきほどまで暴れていたであろう獣の姿はどこにもいなかった。

一瞬安堵したが、琥珀の姿が見当たらない。

辺りを見渡すと、雪の上に倒れている琥珀を発見した。

全身にひどい傷を負い、生きているのも不思議なくらいだった。

「琥珀っ!」

瑠璃は琥珀の身体を抱き抱えるがすでに息はなかった。

かろうじてある脈も弱々しくいつ途絶えてしまってもおかしくない風前の灯火だった。

琥珀との治療の優先順位が落とされているのはわかっていた。もう助かるようなことはないだろう…

「せめて、最後くらい…」

運命のいたずらと言ったものか琥珀が倒れていた場所は琥珀の家のすぐ近くだった。

「寒さだけでも…」

瑠璃は両親が避難し、誰もいなくなっていた琥珀の家に琥珀を運び込んだ。

自分が知る限りの手当を施すが、それが全くの無駄であることは瑠璃にもすぐにわかった。

「琥珀…ありがとう」

床に横たわる琥珀の表情はどこか安心し切ったような表情だった。

少し落ち着くと、瑠璃の目から大粒の涙が溢れ出てきた。

自警団として、同じ村の人間として、そして友人として…今までの思い出がほんの数時間前の出来事のように巡る。

「なんで…琥珀が…」

これが自警団に属するということなのだ。それはわかっている。

死というものが常に身近にあるものだと、平和な日常が続けば忘れてしまうものだ。

気温のせいだけでない、冷え切った琥珀の手を瑠璃はそっと握りしめた。


どれだけ時間が経っただろうか…数分が何時間にも感じてしまうほどその空間は鬱屈感があたりにのしかかる。

外では身内の安否を確認する者、家屋が破壊され途方にくれる者、そして身内の死に嘆き悲しむ者…

それがほんの数時間前の平穏からは全く予想できるわけもない結末だった。

瑠璃のすぐそばには琥珀の亡骸が横たわっていた。

このままでは共同墓地へと葬られるのか、それとも村を守った英雄として祀り上げられるのか…だが琥珀はそのいずれも望んでいないように思えた。

「琥珀、君の眠りは僕たちが守るよ。守られているだけじゃ嫌だから」

瑠璃は琥珀を背負うと、村人さえも滅多に足を踏み入れない雪深い裏山へと向かった。


道中の雪は深く、当時の瑠璃の身長を超えるような場所もあった。

雪原の行軍は自警団で何度も訓練で経験している。

琥珀を背負った瑠璃は、一歩一歩道無き道を進んでいく。

普通の人ならば方向感覚を失うほどの一面の雪原、長年の感覚だけで歩みを進める。

「このあたりかな」

瑠璃は足を止めた。

あたりは道中と比べると雪がほとんど積もっていなかった。

少しひらけた場所、あたりには古びた石柱が無造作に転がっていた。

「ここなら琥珀を守ってあげられる」

瑠璃は雪を払いのけ地面を掘り始めた。

寒さでかじかむ手をいっさい気にすることなく一心に地面を掘り進める。

疲れ切った身体、徐々に奪われていく体温…それでも瑠璃は意に介していない。

これが琥珀にできる最後の手向けなのだと思っているかのように…


すでに陽は傾き始めていた。

寒さが一層強くなりその風が瑠璃の傷に染み入っていく。

瑠璃は掘った穴の中にそっと琥珀を寝かせる。

琥珀の亡骸に土をかけようとしたとき、

「瑠璃…」

瑠璃の背後から弱々しい声が聞こえてきた。

「にいちゃん!?」

そこにいたのは全身包帯まみれの翡翠が立っていた。

ここまで来る道中で傷が開いてしまったのだろう…包帯からは血が滲み、道中の雪に血の跡が残っていた。

だがそれ以上に血が滲んだ右目の眼帯が昨晩の出来事の凄惨さを物語っていた。

「琥珀…」

翡翠はその場で膝をついた。

「琥珀…オレに力がないために…」

翡翠の左目から涙が溢れる。

声を殺そうとしているが、嗚咽混じりの声が抑えきれずにあたりに漏れ出る。

ただただ悔しかった…もし自分にもっと力があればと…

手のひらに爪が食い込むほどその手を握りしめる。

自分を責めることでしか、湧き上がってくる感情を抑えることができなかった。

何度も何度も自分自身を斬り付けるかのように、そして何度も何度も…


「琥珀…あとはオレたちに任せてくれ…。ありがとう…」

翡翠は自身の服に縫い付けられていた自警団の紋章を引きちぎると琥珀が眠る穴に投げ入れた。

「そこからオレたちを見守っていてくれ…」

これ以降、2人が言葉を交わすことはなかった。

ただ黙々と、そして無表情のまま琥珀に土をかけていった。

感情を押し殺しているわけではない、感情を全て吐き出し切ったかのような2人にはもう何も残っていなかったのだ。

琥珀の姿が見えなくなっても2人は土をかけ続ける。

そこに久慈琥珀という存在が最初からいなかったのかもしれないと…


絶え間なく押し寄せてくる感情は、2人の心と感情を最も簡単に押しつぶしそして破壊していった。

まだ成人には程遠い2人にとってこれほど凄惨な現実が受け入れられるわけがない。

限りある生を終えた者の末路は今まで散々目の当たりにしてきた。

だが、それが自分の身に降りかかってくる日など到底想像できなかったのだ。

もし琥珀が生きていれば何を望んでいただろう…最後に何を伝えただろう…

それは後悔ではない…なぜならばそれが翡翠と瑠璃を動かす大きな原動力なっていったからだ。


その後、村で翡翠と瑠璃の姿を見たものは誰もいなかった。

あの混乱の中だ、戦いの中で死んだといても、死体が行方不明になってもなんら不思議ではないのだ。

だが、2人が行方不明になった数日後、村のはずれであるものが発見された…

『久慈琥珀』

と掘られた朽ちかけた石だ。




亡き友の墓の前でちょっとした昔話に思いを巡らせていた。

村もあれから時間こそかかりはしたが、当時のことがまるでなかったかのように復興を遂げていた。

戦う力だけでなく、こうした災厄に対して負けないという力も持ち合わせているのだろう。

村は強かったのだ。

物思いに更けていると、翡翠の耳に聞き覚えのある音が聞こえてきた。

それは翡翠が一番聞きたくないと思っているあの音に違いなかった。

夜鐘だ。

村人が一斉に避難を始め、自衛団もその誘導と敵との交戦の準備を始める。

「ここはオレの大切な場所だ。壊させはしない…もう失うのは十分だ…」

翡翠は刀を持つと琥珀の墓石を後にした。

「また会おう…」

琥珀に対しての言葉はそれだけでよかった。


避難する村人とは逆流するように駆け出す翡翠、自警団員が村の入り口方面に集まっていくのが見えた。

おそらく敵はそこにいる。

「琥珀…今度はオレが守る番だ…」

現場に急行している自警団員を何人も追い越しながら翡翠も村の入り口へと到着した。

敵は奇しくもあの時と同じ熊のような獣であった。

明かりに照らされたその表情は飢えた猛獣そのものだった。

獣は雄叫びをあげると村に向かって突進するが、囲っていた自警団員はその突進をギリギリかわす。

あの質量、そしてあのスピードとなれば直撃してしまえば命の危険すらある。

「しまった!」

自警団がかわすということは、敵の軌道は村への一直線に伸びていく。

予想外の敵の動きに対処しきれなかったのだ。このままでは村の中での戦闘となり被害は免れない。

獣はもう村まで目と鼻の先のところまで迫っていた…そのとき、すでに翡翠は刀を抜いていた。

「遅い…」

目で追うことすら不可能なすれ違いざまの一閃…その一撃は敵の肉を裂き骨を絶ったのだ。

村の入り口一歩手前でその獣は物言わぬ骸と化した。

刀を鞘に収めると呆然と見つめる自警団員に目もくれず翡翠は村を出ていった。

宵闇に禍々しく輝くその瞳は、まるであの日の悪夢を思い起こさせる程であったと言われている。

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