第5話:翡翠の軌跡(前)

窓の外、夜の帳が降りるとそこは完全な闇が支配していた。

時折吹く風が部屋の窓をガタガタと揺らしている。

この季節になると昼夜問わずこの地域では冷たい風が吹き、そこにいるものを凍てつかせる。

部屋の中にいるはずなのに冷える…もしやと思い窓の外を覗いてみると雪が舞っていた。

「もうそんな季節なのか…」

雪…翡翠にとってあまりいい思い出のないものだ。


翡翠は氷狼村で生まれそこで育った。

ルーグラシアルの本部から山をいくつも隔てた先にひっそりと佇んでいる小さな村だ。

山間にある村だが、一年のうち大半が氷と雪に覆われているほど過酷な環境だった。

それゆえに何かが起こっても自分たちで解決しなければならなかった。それは日用品の修理から食料の調達、さらには村の防衛にまで及んでいた。

山間には獣が現れやすく、農作物だけでなく人命にも被害を与えることもあり、猟師に常駐してもらうようにお願いに回ったこともあったが、

環境が環境なだけに返事は渋く、仮に了解をもらえたとしても非常に高額な報酬を請求されることもあった。

一度、雇われた猟師が氷狼村を襲った獣の群れに襲われてしまい重傷を負うという事件があって以来、みな氷狼村を避けるようになっていたのだ。

そんな経緯からか自分たちの村を守ることができるのは自分たちだけであるという強い自負から誕生したのが自警団だ。

この自警団が一説では全てのギルドの始まりとも言われている。



氷狼村は、この季節ともなれば雪と氷に覆われ近づくことさえも困難な状態になっている。

だが、そこで生まれ育った翡翠にとってはそんなことは当たり前のことだった。

翡翠は村の入り口から中心部へと歩みを進めると、栄えている商店街を抜け村の裏山へと向かって行った。

道中、村人の怪異の目に晒されることになったが一切気にすることなかった。

いやそういったものに慣れてしまっているのかもしれない…ただただその歩みは淡々と目的を持っているように見えた。

村の裏山は人が立ち入ることが滅多になく、訪れた人の行手を遮るかのように雪が立ち塞がっていた。

「いつきても変わらない景色で安心した…」

一面の銀世界の中を歩みを進める翡翠、雪は歩みを邪魔せぬように彼を避けるように虚空へと舞っていった。


しばしの時間雪道を歩いたその先には開けた土地があった。

そのまま彼は雪化粧が施された一つの石の前で足を止めた。

「寒かろう…」

純白に相応しいその化粧は彼の手によって全て払いのけられた。

『久慈琥珀』

そう石には刻まれていた。

「今年は遅れずに来ることができたぞ、琥珀…」

翡翠はそっと着ていたコートを脱ぐと琥珀の名が刻まれた石へとかけた。

それは琥珀の友人である糸魚川翡翠としての手向けだったのかもしれない。




氷狼村は昔から獣による被害が絶えなかった。

そのために自警団が設立されたのだが、設立当初は戦闘経験の無さから多くの負傷者を出した。

それでも村人たちは自分たちの村を守るためには自分たちの力しかないと信じていた。

新しい武器の開発や厳しい訓練を繰り返すことで、大型の獣を追い払う程度の力を手にすることができた。

当時15歳の糸魚川翡翠、その双子の弟である糸魚川瑠璃、さらには同い年の友人である久慈琥珀も自警団に所属していた。

翡翠が自警団に入団した時代は、自警団に所属していたということがギルドへの所属する際に有利にはたらくとして翡翠も進んで自警団へと入った。

それは本来の自警団の考え方に背くものであったが、信念よりも利益に重点を置かれるようになったのは時代の流れだろう。

16歳になるとギルド養成所というギルド構成員に必要なことを学ぶことができる場所があった。

そこでは戦闘技術だけでなく、古い戦記を用いた戦術の考察や行軍速度計算まで多岐にわたる知識を叩き込まれる。

琥珀や琥珀だけでなくだけでなく氷狼村で自警団員に所属していた皆が夢見るところだ。

もちろん、何もなしに養成所に入ることができるわけではない。入所の試験があり、戦闘力は大きなウェイトを占めていてた。

戦闘能力だけみれば自警団のなかでは並み程度であった翡翠から見れば、ギルドとは遠い存在のように感じていた。

そんな翡翠が憧れていたのが久慈琥珀だ。

冷静な戦況判断にその剣の一振りで不利な戦況をひっくり返すほどの実力、氷狼村の村人もその実力を高く買っていた。


「琥珀がやってくれた」

「村を救ってくれた」


村は琥珀ムード一色に染まっていた。しかし、実際にはその琥珀の活躍の陰には常にある人物がいたと言われている。

糸魚川翡翠だ。

翡翠は琥珀の指示のもと、的確に琥珀や他の自警団員の戦闘をサポートしていた。

初めこそは自分の手柄が認めてもらえていないものだと思っていたが、徐々に琥珀の功績は自分とともにあると思うようになっていった。

翡翠がサポートして琥珀が一手を打ち込む…この戦い方ならどんなギルドでもどんな相手でも通用すると、翡翠はまだ大人になりきれていない心の片隅でそう思うようになっていった。


そんなある日の夜、村中に夜鐘が鳴り響いた。

深々と雪が舞う静かな夜だった。

そんな静寂も鐘の音が最も簡単に引き裂いてしまう。


夜鐘とは夜警団が夜間に敵襲があったことを知らせるものだ。

これが鳴るということは自警団の出動と同時に、村人は避難を要することになる。

翡翠と瑠璃、琥珀は村人の避難誘導を始めたが、すぐに前線の出動を指示された。

だが、その前線というのは村の中心部にあまりにも近すぎた。

「一体、何が出たってんだ」

表情はいつもと変わらない琥珀のものであったが、剣を握る手は少し震えているように思えた。


現場に到着した3人が見たものは、倒壊しかけた家屋、完全に潰されてしまっていた集会所、そしてそこら中に倒れている自警団員だった。

倒れている人を助けようにも、目の前で暴れている二足歩行で近くに立っている家ほどの大きさもある熊のような獣を制圧しなければならない。

だが、これだけの人数がかかっていって倒せなかった相手に琥珀とて後ずさりせざる得ない。

「瑠璃は後方支援に回ってくれ。翡翠はオレといつも通り…いくぞ!」

3人は剣を鞘から抜くと敵に向かって走っていった。


琥珀が先陣をきって敵の懐に入り込む。

敵の意識が琥珀に集中している隙に、琥珀の影から翡翠が飛び出し敵の右腕に一閃を浴びせた。

完全に意識外の攻撃だった。普通の敵であればおそらく簡単に切り伏せられていただろう…だが、今回の敵は訳が違った。

翡翠の刃が表皮に弾かれたのだ。

「なっ…」

動揺する翡翠だったが、自分の後方には琥珀が控えていた。

自分がダメでも琥珀ならなんとかしてくれるはず…その望みにかけて琥珀に進路を開けわたす。

続いて空気を引き裂かんばかりの琥珀の踏み込み、鋭い一閃が敵の右腕の表皮に傷をつけた。

だが、それは致命傷には程遠いものだった。

一旦体勢を整えるために敵に間合いを取る2人、だがそれが僅かではあるが隙となってしまった。

まるで2人の動きを読んでいたかのように巨大な獣の右腕が地面を薙ぎ払う。

「ちっ!」

琥珀と翡翠は紙一重でかわすと、間髪入れず巨木のように太い腕に渾身の一撃を切り刻む。

二条の切り傷が刻まれるが、少し血が流れ出る程度のダメージしか与えることができていなかった。

もはや戦力差は圧倒的だった。

今までの戦い方が全くもって通用しなかったのだ。

だが、ここで自分たちがが退いてしまってはこの村に甚大な被害が及んでしまう。

(命に代えても…)

この時点でも琥珀の意思は完全に固まり切ることはなかった。

対しての翡翠の感情は恐怖と焦りにより徐々に黒く塗りつぶされそうになっていた。

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