三
それから二十五年。あの年の夏のことで、もう覚えていることはなにもない。
だがこの場所に立っていると、とりとめもないことであっても色々と浮かんでくる。
黄昏の魔術――彼女の表情が消えたあれは、幻惑だったのだろうか。
きっと、そうなのだろう。あの場の雰囲気に心が乱され、彼女の言葉通りのものが見えてしまっていたのだろう。思い返せば、あの時の僕の心は異常だったのだ。女子と二人きりで、夕暮れの教室……日常とは違う空間に身をおいていたことは、確かなのだ。
あそこで、彼女は何を伝えたかったのだろう。町を離れなければならないと、既に知っていたのだろうか。知っていたとしたら、僕に何を伝えたかったのだろう。僕だけに、何を言いたかったのだろう。
どれほど追いかけても、答えが見つかることはない。僕は背を向けてしまった。夕日の魔力に負けて。昼と夜の境に迷い込んだ者だけが見る、美しく妖しく、底知れない一瞬の夢幻……。
黄昏を、大禍時とも言う。あるいは、逢魔時とも。後になって、知ったことだ。
あの時、僕の心の中にあったのは恐怖だけだった。子供の日常から切り離された一時の中で、見えるもの全てが鮮やかで、毒々しくて。そのひとときの中に留まり過ぎれば、二度と戻ってこれなくなるような気がして。
――夕日に顔を奪われた彼女のように。
小さな音を立てた机には、何の別状もない。これも気のせいか。いや、あるいは、あの不思議な時間への誘いだったのか。その奥には、凝縮された時間の中で、変わらぬあの子が待っているのかも知れない。そして僕は今度こそ、彼女の素顔を見るのかも知れない。
だが、僕はもうそこには行けない。
あの一瞬間に見えた幻は、あの時の僕だけのものだ。感じた恐怖も、揺れ動いた心も、未だ耳に残る鈴のような声も、あの時の僕だけのものだ。
正しく時間が流れるこの場所では、黄昏を過ぎて空に闇が立ち込めつつある。天頂には星が瞬き、電車到着のアナウンスが響いてくる。
窓に背を向けた。
何も得られなかった過去を後に残して、僕はその場を去る。懐かしい、というにはあまりに時が経ちすぎてしまった、彼女の席の傍を通って。
(了)
黄昏の顔 @RITSUHIBI
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