二十五年も前のことなんて、ほとんど覚えていない。

 けれども、それでも覚えているものがあるとするなら、それは黄昏の記憶だ。

 あの日の夕暮れは、あの日にこの教室で二人いた一瞬だけは、まだ思い出せる。

 夏休みに入る直前だった。僕はその日、なぜだか日が暮れるまで教室にいた。

 先生に叱られて残されたわけでもないし、友達と一緒に残って遊んでいたわけでもない。ただただ、そこにいた。その前後の経緯は、まるで思い出せない。

 何をしていたか、きっと、柄にもなく夕日を眺めていたのだと思う。そんなセンチな感性の持ち主ではなかったけれど、子どもって二年に一回くらい、そういう気分になったりするものだ。

 何をするでもなく、机に座って顔を横に向け、窓の外の緋に染まる広漠を眺めていると、不意に傍らの机が、かたりと音を立てた。

 夕日に心奪われていたからだろう。大した驚きもなくゆっくり振り返ると、僕の席の横に一人の女子が座っていた。夏休み前の席替えで初めて隣同士になったが、それ以前から、それなりに話をして、そこそこ知っているはずの女子だった。

 しかし、名前はまったく思い出せない。

 覚えているのは、肩まである髪が、黒く艷やかであったこと。傍にいると良い香りがしたこと。肌が白かったこと。鈴がなるような、綺麗な声だったということ。

 そして、ちょっと変わった話をする子だったということ。

 夕日を見ていたの? ――何も言えないでいる僕に、彼女はそう言った。

 僕が頷くと、その子は席を立って、窓のサッシに手をかけた。僕もおもむろに立ち上がり、その子の横に並んだ。風が吹いて彼女の髪を揺らし、彼女の香りをかき混ぜた。

 きれいだね。どっちから先にそう言ったのか、よく覚えていない。

 暫くの間、そうやって二人して夕日を見ていた。――いや、ほんの一瞬だったか? いつもならすぐに沈んでしまう夕日が、そのときはずっと、赤々と輝いていた気がする。時間がぎゅっと凝縮された、凄まじい密度の一瞬間を二人すごしていたのかもしれない。

「ねえ――知ってる?」

 鈴鳴る声が、僕の耳を擽った。僕は顔を前に向けたまま、適当に相槌を打った。

「夕日ってさ、きれいなだけじゃないんだよ。ほんとうは、ちょっと怖いの」

「怖い……って、なにが?」

「夕暮れのことをたそがれっていうでしょ?」

「そうなの?」

 そうなのっ、と彼女は強めに言って、少し笑った。

「たそがれってね、あの人はだれ? って意味があるんだって」

 “誰ぞ彼”――後になって知った黄昏の別の名。当時の僕は、きょとんとした顔をして、

「どういうこと?」

 と聞き返しただけだった。彼女は声に微笑みを入り混じらせたまま、

「夕日の光ってね、すっごくまぶしいでしょう。その光が顔にあたると、顔がぎらぎらして、見えなくなるんだって。だから道で人とすれ違っても、それが誰かわからないことがあるんだって、お母さんが言ってた」

「へえ……」

 特に何の感慨も込めずに呟いた。彼女の言葉で、僕の心に触れたものは何もなかった。夕日の逆光? 人の顔が消える? 実感がわかないことばかりで、自分から遠い遠いところの話としか思えない。

「だからさ、夕日って怖いかもしれないよ」

 この子はどうして、こんな話を僕にしてくるのだろう。

 ふと、そんな疑問が湧いた。

 それが、一抹の不安を呼び寄せた。

 小さな不安は、凝縮された時間と密度の中で、あっという間に膨れ上がった。

 背中に冷水をかけられたようにヒヤッとして、夏の暑さを少しも感じなくなった。

「赤い光が塗りつぶすの。その人の顔を。こんなに近くにいるのに、分からない。その人がだれなのか。なにを思って、なにを考えているのか――」

 僕の体が、弾かれたように躍動した。その勢いのまま、彼女に向き直った。

 彼女は僕を見ていた。いつから見ていた? ――それは分からない。

 その顔は、夕日の光をまともに受けて赤白く輝いていた。眩しさに、僕は目を瞬かせた。

 しかしどれほど瞬きしても、目を細めてみても、本来あるべき場所にそれらがなかった。その子の顔は、卵のような、あるいは何も映し出さない鏡のような、なめらかな、艷やかな、丸い虚空でしかなかったのだ。

 だから僕は、彼女の顔が思い出せない。

 その恐ろしい“無”が、僕の心に永遠に刻まれた。その印象が、全てを支配した。

「それでね、あのね、わたしね……」

 虚無は僕に対して、なおも話しかけているようだった。が、僕は答えなかった。それからどうしたか、ほとんど覚えていない。たぶん、逃げるようにその場を去って、藍に染まりつつある空に追い立てられながら家に帰ったのだろう。

 翌日から夏休みで、僕とその子との繋がりは一旦途切れた。お互いに住む家を知っているほどの深い仲ではなかったから、学校がなければ会わない。それが僕にとっては、唯一の安心だった。家に閉じこもっていれば、あの子の“虚無”にも、それを誘う夕日にも会わなくて済む。その年の夏休み、僕は両親が驚くくらい大人しい子どもだっただろう。決められてもいないのに日が暮れるまでに必ず帰ってきて、家中の鍵という鍵、カーテンというカーテンを全て閉めるのだ。そうして、誰がなんと言おうと絶対に窓の近くには寄らないのだった。

 夏休みが終わる頃になって、学校に行きたくないと駄々をこね始めた。すこぶる健康なのに、体調不良を装ったりした。が、両親は許してくれなかった。母親がPTAに入っていて、頻繁に学校に来るから、僕の交友関係については把握していた。それゆえ人間関係のトラブルでないことは明らかだったろうし、あの日のことについては、怖くて誰にも話していなかったし、打ち明けていたとしても、信じてはくれなかっただろう。むしろ、学校に行きたくない口実を無理やり作っていると勘違いされ、もっと怒られたかもしれない。

 行きたくはなかったけれど、サボる勇気もなかった。心底怯えながら校門をくぐった。話しかけられたらどうしようと、教室に入るまでは息もまともに吐けなかった。冷や汗を流し、目をつむりながら椅子に座った。そうしてゆっくりと目を開けて、横目で隣を見た。

 横は空席だった。誰も座っていない。僕は深々と息を吐いた。

 始業ぎりぎりまで渋っていたから、遅刻でもしない限り現れることはない。僕はそこで、まず安堵することができた。

 担任の先生が入ってきた。少し寂しそうな顔だった。

 挨拶の後、担任は僕らを着席させて言った。僕の横の席の子は、両親の都合により急遽、この町を離れなければならなくなったということ。全ては夏休みの間に取り決まったことで、僕らには知らせる時間的余裕もなかったこと。その子は元気だが、僕らとの別れを、とてもとても寂しがっていること……。

 驚きに湧き、何人かの残念そうな声や嘆息が混淆する中で、僕は何とも形容できない気持ちに頭が浸されていた。彼女は、顔だけじゃない。その全てを、僕の前から消し去ったのだった。

 卒業までいなかったので、アルバムにも顔写真は残っていない。だから僕の記憶に映る彼女の顔は、どんな時も、黒くたゆたう髪を肩まで垂らした、赤白い虚無でしかない。目も鼻も口も眉も産毛も、表面上の凹凸すらない、なだらかな平面でしかないのだ。

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