第23話
「麦茶しかなかったんですけど、大丈夫ですか?」
コルク材質のコースターの上に差し出されたのは螺旋彫りがついたガラス製のコップで、その外周は水滴で覆われている。
「ごめん、突然押しかけたのに飲み物まで頂いちゃって」
前置きは良い、とばかりに二戸は首を振る。
あの後、俺たちは店内で少し時間を潰すと、レジ裏の襖の向こうにあった小上がりとも呼べる空間へと通された。
板張りで東井宇されたモダンな店内とは対照的に、俺たちが腰をおろしている畳部屋は生活感を思わせる。その隅には家族のものと思われる二つのランドセルが並んでいた。
店内へ面しているのとは別の壁には、居住スペースに続いていると思われる扉がついている。この部屋は多分、店に用のある客人を通すために使用されているのだろう。
俺は手のひらに収まったコップに注がれた麦茶をぐいと飲み、そのまま口を開く。
「それにしてもだ」
「なに?」
俺は隣に座る黒髪の同級生へと目を向ける。
八河の恰好は、部室で依頼人を相手にしているときのそれとは違い、何も隠すことのない、いつもの制服姿だった。
「その恰好のままで二戸の所に来て良かったのか? 折角隠してたのにさ」
「ああ、それは――」
八河は視線をこちらから、腰を下ろしている二戸の方へと向ける。
「八河先輩と私は高校以前からの知り合いなんです。それも、ここ半年ほどは話す機会もなかったので、学園厚生部などという部活動に入っているとは知りませんでしたが」
「じゃあ初めて部室に来たときには、もう既に変な仮面人間の正体に予想がついていたってことか」
下げ振った二戸の首は肯定の合図だ。
「仮面の向こうから聞こえてきた声には確かに驚きましたが、大方、風紀委員という立場でありながら、学内で男女の共同活動をしていることを公にしたくなかったという辺りだと思いましたので。それに……」
含む様な口元を携えながら、二戸は八河の方を向く。
「……それに、八河先輩ならばあのようなトンチキな行動をとったとしても納得が出来るので」
「どういうこと?」
二戸は視線を一度八河に向けた後、そのまま何事もなかったように場の中央へと戻してそっと口を閉じる。
「……おほん。えっと、八河と二戸が知り合いだったのは分かった。でもさ、二人は一体どういう関係なんだ? 八河に学内の友人がいるなんて話は聞いたことがないから、気になるんだよ」
「それは暗号解決とは関係のない話のように思えるけれど」
まあそんなに目を細めなくても良いじゃないか。
八河という人間の人となりを知ったうえで関わりを持ち続けている二戸という人物は、どこでどのように知り合ったのか。興味をこらえきれない。
「歓談だよ、スムーズな会話のために必要な要素とも言える」
「む、まあそう言うのなら」
俺の言っていることに対して完璧には納得のいっていない様子が彼女の眉根から見て取れた。
そんな彼女は座り位置を直したのち、咳ばらいをしてそのままゆっくりと口を開く。
「私の祖父はピアノを弾くのが趣味。ピアノというものは定期的なメンテナンス、つまり調律が不可欠で、それは昔からこの楽器店にお願いしている。
そして調律の時期になったならば、私がこの店に赴いて仕事を依頼するのが通例となっていた。つまり彼女と私の関係性というのは、業者と依頼人とでもいうのが正しい」
「……それだけ?」
「芦間くん。人生というのは必ずしも劇的ではない。そして今回もそうであっただけ」
あからさまに顔に出すのも悪いとは思うが、正直なんだか拍子抜けだ。
狭い友好関係というのは、異質な接点から露天掘りされているものだと勝手に想像していたけれど、どうやら八河のそれは狭くはあっても深くはないらしい。
「前回の来店が今年の春だったので、大体半年ぶりくらいでしょうか」
「うちの学校に合格していたことは知っていたけれど、そういえば校舎内で会うことは一度もなかった。運が悪い」
「あのな、そういうときは簡単にで良いから自分から挨拶に行くもんなんだよ。上級生の棟に足を踏み入れるのって緊張するもんだろう?」
「そういうもの? ごめん、私そういうの分からなくて」
そう言うと、八河は二戸へと頭を下げる。
「気にしないでください。八河先輩の人となりは理解しているので、別になんとも思っていません」
そうして二戸は本当に何とも思っていなさそうに、口元に軽く笑みを浮かべた。
反省、これが彼女たちの距離感なんだ。さっきのはただ価値観を押し付けただけだ。
「閑話休題です。先ほどの店先での反応を見た限り、お二人は相談のうえでここに来られたのではないようですから。
別々にお話をお聞きしたいと思うのですが、どちらから先に?」
俺は八河と目を見合わせると、彼女からこちらへ向けて血色が悪いとすら感じられるほどに白い手の平が差し向けられた。
「どうぞお先に」
「そっちが先で良いよ。この店には八河の方が先に辿り着いていたんだから。それに俺は帰り道で運よく二戸さんを見つけただけだから」
こちらが言い終わるのを待たずして、八河はふるふると首を振る。
「構わない。どうせ同じことを聞くのであれば、口下手な私よりも貴方の方が適任」
同じとは一体どういうことなのだろうか。
それを聞くにしたって、もう八河の視線はこちらには向いていない。
「えっと、それじゃあ俺から。まずは確認なんだけど二戸さんと菅生さんがバイトをしている場所ってのはこの店で間違いないんだよね?」
「そうです。私は元々手伝いとして働いていましたので。そしてそれを知った沙織ちゃんがぜひここでバイトをしてみたいと。丁度人手も足りていませんでしたし、うちの学校はバイトの制限が緩いですからね」
「届け出を出す必要性や就業時間などに決まりはあるけれど、バイトを行うことそれ自体に制限をつけているわけではない。生徒の家でのバイトという事であれば、問題なく許可は下りるはず」
二戸の説明を捕捉するように八河が続けた。
「沙織ちゃんはバイタリティ豊富ですから。バイトというものに限らず、高校生らしいこと全般に興味があるんです、中学まではかなり厳しく教育されてきたようで」
「ああ、確かにそんな気がするな。特定の何かというよりは、新しいもの全般に好奇心旺盛って感じだ」
菅生が学園厚生部を訪ねてきたあの日。仕草に落ち着きのない彼女の行動は、ともすれば中学生から高校生への過渡期にあったことに起因していたのだろう。
責任と共に自由を得る高校生活、そしてその無法の体現とも呼べる厚生部のぶしつは、彼女にとってとても興味深く映ったに違いない。
「そんな彼女が私には……」
「二戸さん、いま何か言った?」
「何でもないです。それよりも聞きたいことは他にないんですか?」
「あ、えっと――」
勿論訊ねたいことはいくつかあるけれど、それよりも前に、こちらから彼女に伝えなくてはならないことがある。それは、俺達が彼女と同じ卓に着くために最低限必要な、吐露だ。
「俺たちが二戸さんに質問する前にさ、実は聞いてもらいたいことが有るんだ。俺達が今日、天文部を訊ねたことは二戸さんも知っていると思う。そこであの暗号文が、菅生さんから国見君への告白の回答としての役割を持つことを教えてもらったんだ」
「……そうですか」
「あまり驚かないのね」
八河が二戸に投げかける。
「菅生ちゃんの性格は知っているつもりです。それに、回答文という本来の役割を皆さんに隠すべきだとしたのは私です。沙織ちゃんはそれに従っただけですから」
「……何となくは気付いていた。部室で二人と話していたとき、何かを口走りそうになった菅生さんを、貴方が何度か制止しているタイミングがあったから。
今思えば、あれは暗号文が告白の回答に類するものであるということを口止めしていたと」
二戸は、八河のセリフに同調するように目を伏せる。
肯定、それは彼女がこの一連に関して、否定的な態度をとっていたことの証左だ。
「最初から八河先輩がいることを知っていれば、というのは言い訳にすぎません。それに、私は菅生ちゃんのナイーブな部分へ他人を立ち入らせることに今でも反対です。人の口に戸は建てられないこと、私知ってますから。
でも残念ながら、私たちだけではあの暗号文を解読することは出来なかった。歯が立たないすらと言い換えても良い。
どうしたものかと頭を悩ませていた私に、沙織ちゃんが気になる話を持ってきました。沙織ちゃんの中学の先輩とおっしゃる方からの話です」
「……瀬畑さんの件ね」
二戸に聞こえない程度の声量で、八河が耳打ちしてくる。
「沙織ちゃんはその先輩に、解読したい暗号文があることを相談したそうです。告白の回答文であるということは伏せたようですが。
そうするとその先輩は『この学校には生徒の個人的な悩みを秘密裏に清算してくれる部活動が存在する』と教えてくれたそうです。
あとは掲示板でそれらしい部活動を探して、ついでに変な張り紙を見つけて、学園厚生部に辿り着いたんです」
俺はポケットから、暗号の書かれた紙の切れ端を机の上に取り出す。
数字の羅列で構成された暗号文は、いまだに言葉としての意味を保有しない。
その暗号文を睨みつけるようにして、彼女は続ける。
「正直、私はこのまま暗号文なんて解かれなければいいと思っています。
だって、そんなに恋愛って大事ですか? 思春期の一過性の感情と一生残るかもしれない心の傷がつくリスクは、天秤にかけられる程の価値があるとでも?」
そう問いかける二戸の矛先は、明確に八河へと向けられていた。
傷つくリスクを負ってまで相手に想いを伝える行為に意味はあるのかと、彼女は八河に問うている。そして自分の知る八河という人間であれば、この意見に同調を示してくれるだろう、と。
だがそれは、少し前までの八河であればの話だった。
二戸の言葉を最後まで聞き遂げた八河は、涼し気な目で彼女を見つめ返して、自分の心の所在を確認し直すようにゆっくり言葉を紡ぐ。
「二戸さん。確かに昔の私であれば、貴方の考えに同意していたと思う。
でも今の私には、一見非合理的に思える菅生さんの考えも少しは理解できる、いや理解したい。
傷つかないことが、間違えない答えだけが心の在り方ではないと、教えてくれる人たちがいるから」
そうして八河はこちらを向き、
「そうでしょ?」
と口元を綻ばせながら告げる。
「……まあ、善処はするよ」
今の俺には、彼女にこう答えるのが精一杯だ。
俺自身、彼女が望むものを正しく伝えられているのか、分からなくなるときがあるから。
「……でも、それでも私には、沙織ちゃんが傷つくかもしれない未来を無視することは出来ない」
溢れ出そうになる声を押さえつけるようにか、二戸の肩は張り、身体は震えていた。
「菅生さんのことが大切なのね」
「――はい、とても。私なんかには勿体ないぐらい、優しい子なんです」
八河の投げかけに目を見開かせた後の二戸の言葉。目を向けた先の彼女の口元には自然と柔らかい笑みがこぼれていた。
二戸により敷かれた緘口令は菅生を守るための行動だった。
そして二戸の気持ちは、誰よりも菅生が理解していただろう。
――しかし、だ。
それでも菅生は、俺達にこの回答文が何に起因するものなのかを教えてくれた。
誘導のような形になったことは否定できないが、嘘をついて否定することだって出来たのだ。だが彼女はそれを選ばなかった。
それはつまり、菅生の覚悟だ。
傷つくことも、恥をかく可能性も、全て納得した上での。
そしてそんな彼女の覚悟を、菅生に最も近い場所にいる二戸が理解していない筈が無かった。
俺は座りを直し、まっすぐ二戸の方を向く。
「俺たちのこと、信用して欲しいとは言わない。でも俺には、菅生さんが傷つかないだけの未来を望んでいるとは思えないんだ。だからどうか、この暗号文の解読を君たちと一緒に手伝わせて欲しい」
「私からも、お願い」
俺と八河は、同時に頭を下げる。
数十秒、経っただろうか。
店内に流れるモダンジャズのBGMだけが、襖一枚を隔てつつも聴こえてくる。
「……私は仕事に戻ります」
「二戸さん!」
彼女は薄く市松模様が刻まれた座布団から立ち上がり、机の上に置かれた店員用エプロンを腰に巻いて一瞥もくれないまま、
「国見くんは毎週日曜日の午後のレッスン終わりに必ずこの店へ立ち寄ります。
その、紹介ぐらいならします」
と、一言だけ告げた。
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