第19話

 二階と三階を繋ぐ踊り場の壁は、大きなすりガラス二枚で掲示板を縦に挟み込む様なつくりになっている。そのガラス越しに差し込む日光によって、冬場でも比較的暖かくなっている。

 しかしそれは夏場である今にすれば逆効果なんてものじゃなく、一秒だってその場にとどまりたくないと感じさせる。目的地へ向かうため、ワックスで何層にも閉じ込められた黒ずみ階段を俺は一段飛ばしで駆けあがっていく。


 学校指定の内履きのソールと床がぶつかりパタパタと鳴る音がやけに響く。

 なぜだか悪いことをしている様な気がしてしまい、踵から一段ずつ体重を落とす歩法へとシフトする。なにも悪いことはしていないというのに。

 そんな無駄な気揉みをしてしまうほどに、このエリアには他の部室棟の階層にあるような喧騒が全く感じられないのだ。


 人の気が全くないだとかそういう訳ではない。

 どちらかといえば図書館や病院のような、公共の場では極力私語を慎むといった暗黙のルールが敷かれていると言った方が正しいだろう。耳を澄ましながら中廊下を歩けば、扉の奥から人の声が漏れ出ていることに気付く。


 部屋の前に出されている部看板を見た俺は少し違和感を覚え、そしてこの静寂に対して理解がいく。ここには文芸部や囲碁部などのいわゆる文化系と呼ばれる部活動の部室が棟の大半を占めていたのだ。


 春の合併騒動後、長い期間おもだった活動が停止している部活動を対象とした区画整理が生徒会主導で行われた。先ほど俺が覚えた少しの違和感はそれが理由だ。先ほど通り過ぎた文芸部は元々一階にある生徒会室の隣の部屋にひっそりと居を構えていて、こんな場所には無かったはずだ。

 一年生の春、何か部活動に入りたいと思い文芸部の見学にいったのだが、空き倉庫をそのまま部室に流用したせいの狭苦しさがあって入部を断念した思い出がある。だが今となっては立派な一部室を与えられている訳だ。近隣の部の傾向を揃えるような調整もそのタイミングで行われたのだろうと予想できる。


「学園厚生部なんて廃部の筆頭候補だっただろうに良く生き残ったな」


 部に在籍している生徒などいなかった筈なのに、なぜか手つかずのまま放置されていた学園厚生部。いくら旧棟の薄暗い端に居を構えているとはいえ、気付かれずにスルーされるとは思えないけど。

 すこし考えながら歩いていると、正面から向かってくる女子生徒の一人とすれちがう。彼女は胸元に数冊の本を抱えていた。振り返ると、そのまま文芸部の部室へと入っていく。


「あのまま文芸部に入っていれば今頃……」


 そんなたらればを口にしながら、俺は首を大きく横に振る。どんな事情があれども、今の俺は学園厚生部の一部員だ。それが俺の望む青春とは程遠いメンバーで構成されていたとしてもだ。



 俺は小さく頷き、改めて手の上の液晶に映る画像を確認する。そこには天文部の大体の位置が記された簡易地図があった。

 元々は厚生部の部室に案内人である菅生が来てくれる予定だったけれど、それが出来なくなったとの連絡が昼に回ってきた。

 理由を尋ねるまでもなく、部室の場所さえ分かればわざわざ案内をしてもらう必要もない。

 確かに合併の折増設された新棟の方は、いまだ土地勘が掴めない場所も多い。しかし旧棟に関しては男子校時代に一年間を過ごした場所なわけで大体は把握している。

 

 そうして暫く中廊下を歩くと、簡易地図に小さく赤星で目印がつけられた場所に到着した。壁に掛けられた看板には間違いなく『天文部』と書かれてある。

 少し黄色みがかったドアを軽くノックすると、待ち人来たりとすぐさま勢いよく扉が開かれる。ドアの向こう側から顔を出したのは菅生だった。


「ようこそ先輩方! ……ってあれ、お二人は一緒じゃないんですか?」


 三人が同時に来るのかと思っていたようで、覗かせた頭をきょろきょろとして三琴と八河の影を探す。


「二人は少し遅れて来るんだ。ほら、男女でぞろぞろと校舎内を歩いていたら生徒会や風紀委員会にどんな難癖を付けられるか分からないだろ?」


 三琴が教室を先に出ることは確認した。八河はともかく、三琴は先に来ていると思っていたけど、どうやら俺が一番乗りだったらしい。


「そ、そうなんですね。えっとそれじゃあ……」


 そう返事をした菅生はほんのり頬を赤くしながら視線を部室の中とこちらに交互に向ける。

 

 ……ああ、そういうことか。

 菅生の頭を飛び越して見える部室の中に人影は一切なく、死角で会話が成されている様子もない。つまり今この天文部にはということになる。それが意味するところは、先ほどの思案は結果としてとてもズレていたということだ。


「悪い、二人が来るまで俺は部室の外にいるよ。到着したらまたノックするから」


「あ、いえすみません! 気を遣わせるような態度をとってしまって。生徒会が見回りに来ることなんてここ半年なかったですし、気にしすぎですよね。どうぞ中へお入りください!」


 そういって菅生は扉を開き中へ招き入れる。

 彼女がそういうのなら俺に断る理由はない。それにどうせもう少し経ったら二人が到着する。菅生には申し訳ないがそれまでの間の辛抱ということで。


 一歩室内へと踏み込み、部室の中を軽く見渡す。


「なんだかうちの部室よりも広く感じるな」


 当たり前だがこの部室棟に入っている部室の間取りは全て同じだ。例外はない。しかしながら天文部の部室は、厚生部のそれに比べて人が動き回ることの出来るだけの広さがあるように感じられた。


「天文部全体での活動はほとんど屋外で行われるので、部室を快適にするための物は基本的に置かれてないんですよ。机は四人用のが一つしかありませんし、他は共用の道具保管スペースが殆どです。そこもほとんど使われてませんけど」

 

 菅生が指さした部室の隅には三脚の開かれた小型の天体望遠鏡が置かれてある。隣には折りたたまれたブルーシートがあり、それ以外に観測用の道具らしきものは見えない。入って右側の壁にはホワイトボードが立っており、連絡事項記入と張り紙の保管を兼ねているようだ。

 あとは壁際に個人用のスクールロッカーがあり、窓下に二段の小型本棚が一つ。それ以外には目立ったものは見当たらない。


「でもこのぐらいが普通だと思いますよ? 他の部室にもお邪魔することありますけど、厚生部さんはその中でもかなり設備が充実してる方だと思います」


 菅生はさも当然かのように言う。 

 確かに天文部と比較してみると、厚生部は居座るスペースとしての利便性に優れている。誰が持ってきたかもわからないソファや冷蔵庫、天井まで伸びた本棚は左右の壁に置かれてある。何か必要なものがあれば部室を探すと大体用が済むことが最近判明した。


「でもまあうちは設備が充実しているというよりも物が多いだけのような感じがするけど」


「そんなことないですよ! きれいに整理整頓もされていましたし。ああいう部室、憧れちゃうなぁ」


 どこか憧れを抱くような菅生の表情をみるに、うちの部室は何故だかお気に召すものだったらしい。そんな菅生をよそにして、俺はぐるりと見渡した天文部のホワイトボードにつづられた内容に目がいく。


~~~ 18日:『沙織』 19日:『二戸』 20日:『恵美』 21日『沙織』... ~~~


 ホワイトボードの右半分には手書きで二週間ほどの日付が掛かれており、それに付随するように名前が書かれたマグネットが添えられてある。


「これは?」


 俺はホワイトボードを指差して菅生に訊ねる。


「鍵担当を記録してあるんですよ。今日みたいに人が訊ねてこないとも限らないので、部としての用事が無くても放課後は出来る限り部室を開放しておく方針なんです。担当の人は基本的に放課後はずっと部室に残っていることになってるんです」 


「例えばどんな人が訊ねてくるんだ?」


「先輩って意外と意地悪なこと言うんですね」

 

 そう言って菅生は小さく笑みを返す。

 

 俺はもう一度振り返ってホワイトボードを見てからスマホを開き、想像している今日の日付が間違っていないかを確認する。液晶には現在の時刻の下に19日との文字が映し出されていた。

 一年を通せば曖昧になってしまいがちな日付の感覚だけど、夏休みを数日後に控えた最近はしっかりと頭に刻まれている。


 菅生の話を聞く限り天文部の部室には来訪者に備えて常に部員が控えており、今この部屋にいるのは俺と菅生だけである現状を考えると、今日の鍵担当は菅生であるはずだ。

 しかしその担当を記しているホワイトボードの今日の日付の隣には、二戸と書かれたマグネット板が貼り付けられていた。

 俺は、昨日菅生が黒縁眼鏡の彼女のことを『ニコ』と呼んでいたことを思い出す。


 彼女は自分の名前が嫌いだと言っていた。

 二戸、ニコ。

 確かに特徴的な名前が気になるという気持ちは分からないでもない。

 世の中には、一般的に聞き馴染みのある名前だったとしても古臭いだったりありきたりだったりということで自分の名前を好まない人間もいるわけだ。感覚なんてものは人それぞれで、彼女が抱いているその嫌悪感を否定する気に俺はなれない。


 だが黒縁眼鏡という見た目の特徴のみの呼びかたもなんとなくすっきりしない。申し訳ないが、少なくとも彼女がいない場所では二戸と呼ばせてもらうことにしよう。


 俺は顔だけ菅生の方に向き直し、ホワイトボードを指さして

 

「二戸さんは席を外してるのか?」


 と訊ねる。


「いえ、二戸ちゃんはもう学校にいません。家の用事が出来てしまったということで鍵当番は私が代わったんです。もう一人の同級生も委員会の用事がありまして、そうなると部室に居られるのは私一人になってしまって。皆さんをここまで直接案内出来なかったのもそれが理由だったんです」


 本当にすみません、と菅生は頭を下げる。

 突然案内出来なくなったと連絡が来たのはそういうことだったのか。そしてそれは仕方のないことで、こうして謝る必要なんてないしむしろ気を遣ってしまう。


 頭をあげてくれ、とそう告げようとした瞬間だった。

 背中の方でがらりと部室のドアが引かれる音がする。


「どうも失礼します」


「ごめんね、遅れちゃった! 結構入り組んだところにあるんだね。旧棟には慣れてないから道に迷っちゃっ……」


 そうしてすぐに、密室の奥まった場所で後輩の女子に頭を下げさせている状況をみた彼女たちの眼差しは、どんどんと悍ましいものをみるような蔑みのそれへと変貌していった。


 ……どうしていつもこうタイミングが悪いんだ。誤解を解くためには小一時間の釈明で済めば良い方だろうか。

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