第18話

「暗号を解読するためには、まずはこの暗号の差出人について知る必要がある」


 八河は、目線を手紙から菅生と黒縁眼鏡にゆっくりと向けかえる。ソファの背もたれに背中をつけず、手は膝の上で小さく交差している。手元の所作だけ見れば、深窓の令嬢と称してもいいぐらいのなめらかで淀みのない仕草だが、胸より上の奇怪な被り物が、その株価を暴落させている。俺はそんな否応なしに目をひきつける八河から目を離し、彼女が言った暗号の差出人という意味を考える。


 暗号とはその内容に関わらず、情報を隠して伝えるために誰かの意思のもと作られたものだ。生きた人間が意思を持って作ったものである以上、その作成者自身の情報は、暗号解読を進めるうえでこれ以上ない足掛かりであるといえる。俺は、数年前に母親が見ていたドラマの探偵役が、まずは犯人像を特定するところからと意味深に告げていたことを思い出す。

 さらに言えば、作成者が持ち得る知識で暗号のおおよその傾向を絞り込むことができるわけで、例えば小学生が作った暗号に微積分の知識が必要であるとは思えないし、長野に住む爺ちゃんが作った暗号に人気YouTuberのエッセンスは取り入れられていないだろう。

 解読の糸口と呼べるものが俺たちの頭に思い浮かんでいない以上、作成者の知識を聞き出すことは定石ともいえる。


 そうした、言ってしまえば予想の範疇であろう八河の質問に対して、意外にも二人の反応は芳しくなかった。

 いや、二人というのは少し間違いで、返答に大きく戸惑いを見せたのは菅生だけだ。黒縁眼鏡はむしろおおよそ予想がついていたのだろう、どちらかというとそんな菅生の反応に対しての驚いた様子だった。


「差出人……そっか、そりゃ言わなきゃですよね……」


「当然だと思うけど?」


 明らかに言いづらそうにしている菅生に対して、八河が更に言葉を重ねる。

 八河の声に詰問の色はない、ただ当然と思っているがゆえの言葉だ。

 確かにその無機質で簡素な物言いは勘違いされる八河が他人から大きく勘違いされる要因の一つだ。だけどそれとは関係なしに、菅生の反応には気になるところがある。誰かに聞かれては困るような差出人なのか?


「まあまあ部長、二人にも都合があるんだよ。別に聞かなくてもさ――」


「いや良いんです。頼んでいる立場なのに手間をとらせるようなことをしてすみません」


 菅生はそう言ってはにかみながら手を頭にやる。


「この手紙は国見健という男の子からもらいました。同じ一年生なんですが、私たちとは違うクラスなんです」


 菅生はそう言って照れくさそうにする。

 ああ、なるほど。菅生が言いづらそうにしていた理由が何となく理解できた気がする。


「国見……どこかで聞いたことある苗字だ……」


 菅生から差出人の名前を聞いた三琴は、口元に手をあててそう小さく呟く。


「知り合いか?」


「いや喋った事あるなら流石に覚えてるよ。だからそうではないんだけど、いや何だったかな」


 差出人の苗字である国見。確かに珍しい苗字ではある。しかし、珍しいという枠組みに属する日本の苗字なんて数えられないほどある。マイノリティの集合体がマジョリティを飲み込むことだってある訳で、珍しい苗字だからという理由だけで記憶に残るとは考えにくい。

 まあでも、そんな頭の片隅にあるかもしれない程度には薄い三琴と国見の間柄は今回関係ないだろう。話しているうちにでも思い出すはずだ。


「国見健くんか。違うクラスって言ってたけど、どういった経緯で知り合ったんだ?」


「実はわたし、天文部に所属しているんです。新入生歓迎の時期に国見くんも天文部に見学に来ていて、そこで知り合ったんです」


「私も天文部です」


 そう言って黒縁眼鏡も小さく手を挙げる。

 天文部か、聞いたことの無い部活動だが、そういうのもあるのか。

 学園の規則上、男女が個人的に知り合うタイミングとというのはほぼ部活動に限られる。厳しい制限の下ではあるが、部活動に限って言えば男女が共同で活動することが許されている。

 それに、同じクラスなら日常生活で何らかの会話を交わすことは有るかもしれないが、違うクラスの威勢の名前なんて覚えることは滅多にないだろう。


「じゃあ国見くんも?」


 俺の問いかけに、菅生は小さく首を振る。


「実は彼、見学して直ぐに天文部に来なくなっちゃったんです。天文部って元々女子校側にあった部活で、上級生はみんな女子なんですよ。同期の男子は国見君一人だけだったので、まあ正直居心地が良くないってのも分かります。一応籍はおいてあるみたいですけど」


「確かにそれは居づらそうだな。こんな学園で男女でいるだけで、どんな難癖付けられるか分からないし」


「それ、芦間くんが言えることではない」


 八河は全員に聞こえるか聞こえないかの小さな声で呟く。


「確かに、今の文理の状況なんて風紀委員会がきたら即刻連行ものだろうね。停学ぐらいは覚悟しておいた方が良いよ」


「この場に存在するだけで!?」


 いくら風紀委員であろうとも、実直に部の活動を果たしているだけのこの状況を処罰対象にするはずがない、よね? あれ、心配になってきた。

 戸惑う俺を後目に、三琴が何かに気付いたように質問を続ける。


「あ、でもさ新歓の時期ってもうとっくに終わってるよね。すぐに国見君が天文部に来なくなったんだったら、菅生さんと国見君が仲良くなるタイミングもなかったはずだし。暗号なんて変なものを貰うきっかけってなんだったの?」


「私とこの子が一緒に働いているバイト先の店によく国見君が来るんです。そこで仲良くなったというか、まあはい、そんなところです」


 なんだか最後が急ぎ足だったような気がするが、二人と国見君が友人として交流をし始めた経緯はおおかた理解できた。学外での付き合いであれば、学校側も激しく追及することは出来ない。それにここまで二人に処罰が下っていないということは、学内に関係性を持ち込んでいるわけでも無いんだろう。


「ひとまず差出人である国見君のことはこの辺にしたい。次に、この手紙を受け取った時のことについて聞かせて。手紙を渡されたのは二人のうちのどちらなのか。そのときに解読のきっかけとなるようなことを何か言われた覚えは?」


 これ以上国見のことについて広げるつもりがなさそうな菅生の表情を見てなのか、八河は解読の糸口を別の部分に向ける。

 その質問について口を開いたのは、黒縁眼鏡だった。


「手紙は間違いなく沙織ちゃん宛ての物です。ですが渡された、というのは正しい表現ではないかもしれません。それよりも、という言いかたの方が合っています」


「置かれていた? 国見君から直接渡されたわけではないと?」


 こくり、と黒縁眼鏡は小さく頷く。


「その手紙、天文部の部室の机の上に差出人である国見君の名前の書かれた付箋と一緒に置かれてあったんです」


「宛名は? それがないなら菅生さんに向けてじゃなくて、他の天文部、例えば君に宛てて書かれた手紙かもしれないんじゃないか?」


「そ、それは無いと思います!」


 上気したような表情と共に、黒縁眼鏡がソファから立ち上がる。その勢いに気圧され、俺は彼女を見上げるようにして背もたれへと背中をつける。


「ご存じかもしれませんが、学校内の部室の鍵は職員室で管理されているんです。そして天文部の鍵の開け閉めは私たち一年生の仕事で、手紙が置かれていた前の日の施錠は私がやったんです! 

 次の日の開錠は沙織ちゃんが当番だったんですが、運悪く補習と重なってしまって私が代わることになりました。放課後、職員室に行き貸出記録をつけるための記帳を開いたら、履歴の最後には国見君の名前が書かれていました。昨日返却を行った私の名前の後に書かれているということは、おそらく朝か昼休みに部室に入り、手紙を置いておいたんです。そして、その手紙を最初に発見するはずだったのは、本来の当番である沙織ちゃんだったんです。だからその手紙は絶対沙織ちゃんに宛てたものなんです!」


「ちょ、ちょっとニコちゃん、少し落ち着いて!」


 ニコ、と菅生は彼女を呼んだ。不意打ちめいたところではあるけど、『黒縁眼鏡』としか無かった彼女のパーソナルに新たな情報が書き込まれる。

 最初、彼女は自分の名前はキラキラしていて嫌いだと言っていた。そして菅生もその意志を尊重して出来る限りその名を伏せていたはずだが、つい口をついて出てしまったようだ。であるならば、俺達も今のは聞かなかったことにするべきだろう。


 興奮する黒縁眼鏡をなだめるように、菅生は彼女の腕を引き下ろすように手を伸ばす。

 その呼びかけで我に帰った黒縁眼鏡は自分の行動を恥じるように、すみませんと小さく呟いてソファへと座り込んだ。

 

 ほんの数秒、場に沈黙が流れる。彼女たちが落ち着く時間を待っている俺達は勿論、場の調子を乱してしまった彼女たちも自分から口を開くのはバツが悪いのだろう。


 どこから会話を戻したらいいものか。

 こういうときにずけずけと物を言う八河は何か考え込んでいるようで、口を開こうとはしない。

 ふと、三琴と目が合う。俺の予想では、彼女もこの沈黙を気まずいとして困ったような顔をしていると思っていたのだが、なぜだかそんなことは無かった。どちらかというと、ソワソワしている様な、機会を待っている様なそんな表情だった。


 時を待たずしてすぐにその表情の理由は判明した。壁にある時計の隣に備え付けられたスピーカーから、閉校の時間が近づいていることを告げる予鈴が鳴り響く。


「あ、もうこんな時間か」


「今日は清掃活動があったからね。いつもより時間の経過が早く感じるよ」


 ふと見やった窓の外からは、茜色の光が差し込んできていて少し眩しい。去年から俺の中で、あのチャイムはひとつの基準のようになっていた。

 昔から、季節の移り変わりなんてものは衣替えの時期ぐらいにしか意識してなくて、それ以外では暑いか寒いかの二元でしかなく、言ってしまえば頓着がなかった。毎日同じことの繰り返しが続く学生の季節感なんて、そんなものだろう。

 別に今でも、その意識が大きく改革された訳じゃない。何かきっかけがあったわけでも無い。それでも今の俺は、あのチャイムが鳴ると、自ずと窓の外に視線が向く。空が暗ければ足元に気がいくし、陽が赤みがかっていたらもうすぐ秋が近づいているのだと感じる。


 先ほどの放送はあくまで予鈴で、今すぐに学校から締め出されるという訳ではない。校門が閉まるまではまだ幾ばくかの余裕がある。そこまで急いで帰り支度を済ませる必要もない。

 しかし、黒縁眼鏡はその予鈴を聴くとすぐに、あ、まずいと小さくつぶやく。


「すみません、話の途中ですけど今日はここで失礼します。私たち、身支度も済ませてませんし、それに部室の鍵の返却もまだなので」


「分かった。明日は手紙が置かれていた天文部の部室を見せて欲しい、出来る?」


 八河の要望に、菅生は大きく頷く。


「大丈夫だと思いますよ! 三年の先輩は受験勉強で部活には来てないですし、一人しかいない二年の先輩は、最近はもう別の部活の方に力を入れてます。だから最近はほぼ私たち二人だけしか部室に居ませんし。とりあえず明日の放課後、一度ここに来ますね」 

 

 そう言って、二人は部室を後にした。


 二人が部室を出た後、すぐに戸締りを済ませて俺達も帰路につく。鍵の返却は八河がやってくれた。 


 帰り道、俺はずっと暗号のことについて考えていた。

 『88 4/4 7×7×3×3÷』

 計算式のようにも、ただの記号の羅列のようにも思える。

 この組み合わせがどんな意味を持っているのか。どうして国見は暗号を作ったのか。彼はこれで一体何を伝えたいのだろうか。


 明確な答えなど出る訳もなく、気が付くと俺は自宅の玄関のドアに手を掛けていた。

 もう既に、空は暗くなっていた。



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