第14話
「――という訳なんだけど……」
授業終わりの部室にはかなりの熱が籠っている。合鍵は渡されていたものの、自分で鍵を開けるのは初めてだったから知らなかった。校舎増設の影響で少し日当たりの悪い立地へと変化したせいか、換気をしないとかなり息苦しい湿気も満ちることになる。
あれから木牧との約束の三日が経った。
夏の選手権大会のメンバー発表が行われたのは昨日の筈だ。エースナンバーの行方がどうであれ、普通の人間であるならば少しは表情に出そうなものだけれど、今日一日、木牧の様子はいたっていつもと変わらなかった。目線すら合うことがなかった。彼がどのような心持ちで昨日を迎えたのか、俺には知る由もない。
そして誰にも口外しないという約束は今日までだ。
瀬畑と木牧の関係を探っていたのは学園厚生部としての活動の一環だということを自己確認するためにも、俺は日中のうちに二人へ連絡をとった。部活内での共有をこれ以上怠れば、俺は只の出歯亀趣味の下衆野郎に成り下がってしまう。いや、独断行動をとっている時点でもう免れないのかもしれないけど。
俺の説明を聞いた八河は神妙な面持ちで顎に手をやる。その隣に座る三琴は、机の上に置かれたマグカップに手を伸ばしゆっくりと口をつけた。この沈黙を紛らわせるため俺も飲み物に手を伸ばそうとしたけれど、生憎と身動きが取れないため諦める。
突拍子もないと捉えられても仕方ない俺の考えを聞き、暫く押し黙っていた二人。その中で最初に緊張の糸を切ったのは三琴だった。彼女は両肩に張っていた力をストンと落としてゆっくりと口を開く。
「……確かに言われてみれば、瀬畑ちゃんの口からしか木牧君がエースだと言われてなかったよ。私たち全員勘違いしてたんだね」
「俺も含めてみんな、木牧については瀬畑が一番詳しいと思ってたからな。その彼女が誤認していたのがそもそもの事の発端で、木牧の苦い態度の原因だったんだ。情報に近ければ近い程、間違いに気付くのは難しい。本人は当然の事だと認識しているわけだしな」
「灯台下暗しってやつかぁ」
こんな簡単な事で、と三琴は小さく呟く。
最初は俺も確かに同じことを考えた。だがすれ違いというのは得てしてこういう小さなボタンの掛け違いで起こるものだと俺は思う。どんなに長い年月を共にした相手でさえ、思考を完璧に把握することは不可能だ。
目の前にいるこの幼馴染についても、ある程度趣味嗜好は把握しているつもりだけど、それはただの知識に過ぎない。彼女が数瞬後にどんな行動をとるだとか、そういったことを推測する一材料はなるかもしれないけれど、決して根拠となることはない。
「でもまあ、私としては安心したよ。なんせ木牧くんが煮え切らない態度をとっていたのは、瀬畑ちゃんの高校野球に対する知識不足が原因の単なる勘違いだったんだからさ。つまり瀬畑ちゃんが謝れば済む問題って訳でしょ?」
「……そうかもな」
正誤入り混じる彼女の言葉を理解した上で、俺はあえて否定することはない。
あの日木牧が吐露した心境を、俺は二人に説明していない。する必要もない。
そもそも、俺が木牧との会話の中で行ったことは只の事実確認に過ぎなかった。そしてもし木牧が胸に秘めたる気持ちを口にしなければ、彼が瀬畑に対して意図的に棘のある感情をぶつけていた事実に俺が気づくことは無かった。
であるならば我らが学園厚生部が辿り着いた推理の果ては、瀬畑と木牧の間で起こった小さなすれ違いであるべきだ。
自分の中である程度納得がいった様子の三琴は、うんうんと首を縦に振る。
しかしまだ安心することは出来ない。その横でいまだ難しい顔をしている人物が一人いるからだ。相変わらず彼女の表情からその真意を読み解くことは出来ない。
「は、八河さん?」
俺の呼びかけに対し、八河は身体の正面をこちらに向ける。
「……芦間くんの心づもりは分かった。暫く部室に顔すら見せなかったのは、推理に確実性を持たせるための調査期間ということで良い?」
「まあ、そういうことになるかな。推理を確実なものにするために時間が必要でさ。根拠もあやふやな理屈で依頼人の不安をあおる訳にもいかないだろ」
学園厚生部としての活動を行うという建前が無ければ、男子と女子が世間話の為に学校内で接触することはできない。それを逆手に取ると、学校外での突如の遭遇さえ気に留めてさえいれば八河や三琴から部活動への欠席を問い詰められることもない。度々送られてきていたメッセージも申し訳ないが無視していた。
「二人だけで調べるのも大変だったんだから。いくら風紀委員という盾があるからと言って、無制限に男子に話しかけるわけにもいかないし。そもそも他からの眼を気にして、会話にすら応じてくれない人が殆どだったんだよ。
あの野球部の後輩君みたいに聞き込みが上手くいくのはかなり珍しいね」
「かなり困った。反省して」
反省してとの言葉はあるものの、八河の表情や声色などからは不機嫌であるだろう印象を感時ることは出来ない。これもまた彼女の無機質な立ち居振る舞いによるものなのだろうか。
「悪かったよ。次からは連絡もするし、勝手な行動もとらない。約束する。絶対にしない! ……だからさ、分かるよね?」
俺は許しを請う罪人のような表情で二人を見つめる。だが返答はない。
ハイコンテクストなその懇願は、信じられない程分かりやすい意図を含んでいるはずなんだけど。
「……」
「よ、よーし、それじゃあ私はもう帰ろうかな。瀬畑ちゃんへの報告は私が個別でしておくよ。早く解決して欲しいしね!」
「うんうん、わかるぞ。事態が収束して俺も今日は早めに帰りたい気分なんだ。だから三琴、頼むよ。帰るのはこの拘束を解いてからにしてくれないかな!?」
俺は手首と足首でくくり結ばれた縄を三琴の方へと必死に向ける。
数分前、部室の最初の訪問者だと思っていた俺はなんの用心もしないまま部屋の鍵を開けた。いや、部屋に入るだけで何かを用心しなければならない生活というのがそもおかしい気はする。そしてその直後、何者かに背後から組み敷かれ手足を縄紐で縛られた。
何者かとはいったが勿論これは八河の所業だ。拘束された理由は分からない。だがその瞳には確固たる意志の炎が揺らめいていた。
ソファの上で寝転がり身動きの取れない姿は、傍から見れば水揚げされたマグロのようにも映るだろう。齢17にもなろうという大の大人がなんて情けない姿なんだ。
とてつもない速度で身支度をすませた三琴はソファから勢いよく立ち上がり、口角を軽く上げ目線を俺から外す。漏れ出そうになる息を我慢しながら。
「そ、それじゃさよなら! 八河さん、戸締りは任せるね」
「任せて」
「待って、待って! お願い二人にしないで! せめてこの拘束を解いてからにして! このままじゃ明日には体が冷たくなってるかもしれない!!」
「ははは、夏だからダイジョーブダヨ。それじゃ南無三!」
勢いよく開き閉じられた出入り口扉は、無慈悲にも廊下から差し込む光を遮断する。
ああ、なんとも短い人生だった。
元はと言えば俺は彼女が欲しいだけだったのに。ふつうの高校生活を送りたいというだけの素朴な願いを抱いただけで、人生の幕を下ろす羽目になるとは思わなかった。
せめて、なぜ俺は命を落とす羽目になるのか、それだけでも教えてもらえないものだろうか。
「なんでこんな拘束まがいのことをするんだよ」
すらりと背中を伸ばした姿勢のまま、八河は流し目でこちらを見つめる。
「芦間くんが私たちとの接触を避けていた三日間。私はてっきり、芦間くんはこの部活動を生徒会に密告するために証拠をあつめているのかと思っていた。自主まがいの密告を行えば、学園の規則を破った自分の罪も今であれば軽くなる、そう考える可能性もある。そしてそれが現実のものとなれば、退学を視野に入れなくてはいけなくなる。それを避けるためにはここで口封じをする必要も……」
「た、退学ってそんな大げさな……。いくら男女での交流が禁じられているとはいえ、初犯の八河が退学なんて事態には」
「いや、退学になるのは芦間くんだけなんだけど。私には風紀委員としての活動実績からかなりの情状酌量の余地が与えられる」
「理不尽すぎるだろ!」
いや、でも実はそんなにズレた予想でもないのか? なんせこの学校の実質的権限は、元女子校側の経営陣が握っている。理事長を筆頭として、生徒のみで運営されている生徒会、その下部組織である風紀委員であれば、男女の私的交流を行っていたとしても揉み消すことだって――。
「まあ冗談はおいといて」
冗談なのかよ。
そう突っ込みたくなる気持ちを俺はなんとか抑えることが出来た。その理由は、ふざけた様子など一切ない真剣な表情で、俺を結んでいた紐縄を、八河がほどき始めたから。自分で拘束しておいて、その手で外す。回りくどい意思表示だ。
でも多分こうでもしないと俺が話を聞かずにまた逃げ出すと、そう彼女は判断したのだろう。赤い跡すら残っていない手首を眺める俺を隣に、八河は口を開く。
「……芦間くん、さっき私たちに説明した内容はすべて本当の事? 正直に答えて」
「嘘はついていないかな」
「その含みのある言い方、あまり好きじゃない」
八河は小さくため息をつき、ポケットからスマホを取り出す。そこに映し出されていたのはあの日のグラウンドの光景。紅白戦を終えた俺が、不自然に休憩位置とは反対方向に歩き始めている姿が捉えられている。画角は、多分これは体育館から撮られている。
「よくこんな写真が撮れたな」
「体育館に下窓がついているのはなんの為だと思っているの?」
「少なくとも男子を監視するためではないだろ!」
いくら自習といえど、バレないように授業中にスマホの使用を敢行するとは。こいつ、本当に風紀委員なのだろうか。いや、そもそも学校の規則に反して男子と行動を共にしている時点で、もはや彼女に校則遵守の心意気などあってないようなものなのかもしれない。
「……貴方が木牧君を見ながらそわそわしていたこと、実は気付いていた。何かを掴んでいるはずだとも。
でも貴方から相談や報告はない。小波渡さんも何も聞いていないと言っていた。であれば単独で行動を起こすはず。そしてその行動は私たちの干渉が起こらないだろうあのタイミングに起こるだろうと推測した。――だから、ついていった」
ついてきた、と八河は言う。
しかしそんな事実はないはずだ。少なくとも俺の跡をつけてくる奴が居ないことは注意深く確認している。それ以降の訪問者もない。
校舎裏のあの場所は確かに入り組んではいるが、それでも人ひとりがすっぽりと隠れられる程のスペースは無い。弓道場の方だって、隠れは出来るけど俺たちの会話を聞き取れる程の距離にはない。
――いや、一つだけあった。俺達の会話が聞こえる範囲で、それでいて俺達からは見えない位置が。
「……踊り場のドアの後ろに隠れてたのか」
「正解」
俺たちが腰を下ろし、会話をしたあの踊り場。校舎の内外を繋ぐあのアルミ扉は、確かに外の会話が聞き取れるだろう位置にある。勝手口である以上、外から扉を開くことは出来ないため、俺達から見つかる心配もない。灯台下暗しってやつだ。
「どこまで聞こえてたんだ?」
「内容の殆どは」
八河は悪びれもなくそう告げる。
ということは俺が意図的に木牧の発言を隠していたことには気付いていたわけか。だったらそれこそ回りくどい言い方などせず、俺が隠し事をしていたことを糾弾すればいいのに。
――いや、本当にそうなのだろうか。
なんで八河は俺が事実を隠していることに気付いていたのにもかかわらず、それをこのタイミングまで伏せていたんだ。
黒は黒、白は白だとにべもなく断じてきた八河が、ここまで発言を避けてきたという事実には、何かの意図が含まれている筈だった。
俺はそうして彼女の瞳を見つめる。西の窓から差し込む夕陽は、白く冷たい印象のある彼女の顔に影を落としていた。
「……木牧君は、自分が抱える歪な感情を貴方にだけ打ち明けた。私たちは二年生のあなた達しか知らない。もしかしたら、貴方と木牧くんの間には私の知らない信頼関係があるのかも。
でも木牧君がその感情を本当にぶつけるべきは芦間くんではなくて、ずっと彼からの言葉を待ち焦がれていた瀬畑さんではないの?
膿んでしまった自分の気持ちを瀬畑さんが受け入れてくれないと判断した結果が、あの独白であるとするのならば、彼らの関係性は余りにも脆すぎる。私にはそれが愛し合う間柄の距離感だとはとても思えない。だから、
――瀬畑さんに伝えたの。あなたたち二人の会話の全部を」
八河が一体何を言ったのか、俺の脳みそが理解するまでに数秒の時が流れた。
伝えた? 何を? あなたたち、俺と木牧のことだ。それを瀬畑に? なぜ?
「大丈夫、伝えたのはついさっきだから。三日後である今日まで内緒にするという約束は守っているし、何の問題もない」
淡々と、彼女は続ける。
「木牧君が瀬畑さんを避けていた話をしたとき、確かに瀬畑さんは苦い表情をしていたかもしれない。けれど、それも二人が愛し合っているのならばきっと乗り越えられるはず。私は信じている」
八河が紡ぐ言葉には一切の濁りがなかった。渓流に通る川のように、上から下へ言葉の水が淀みなく流れていく。そしてそれはあまりにも、清い。
「お前、自分が何を言っているのか理解してんのかよ」
「ええ、ちゃんと理解していたつもり。木牧君が自分の罪悪感を軽減するために芦間君の言葉を介したことも。そしてそれを過度に慮った貴方が、事実を隠したまま私たちに説明するだろうことも」
真剣な彼女の眼は、逸らそうとした俺の目線を捉えて逃がさない。
だがここで簡単に気圧されるわけにはいかない。彼女がその心に何を考えていようと、俺にだって譲れない訳がある。
「貴方が事実を隠すつもりだったことには気付いていた。しかし相談を受諾した私には、部長として瀬畑さんにその全てを伝える責任がある」
「それはお前のエゴだろ!」
「エゴといえばそれは貴方の方よ。木牧君はたったの一度でも、貴方に同情してくれと言っていた?」
「直接言葉に出さなくても普通は分かるものなんだよ! 人の気持ちが理解できないお前には、出来ないことかもしれないけ――」
口からついて出た言葉を最後まで言い切る寸前、俺は自分がしてしまった過ちに気付く。
遅すぎたその気付きは何を止めることが出来るわけでも無く、ざらついたその言葉は彼女の耳に届いて響く。
昂れば相手に何を言ってもいいわけではないのに。しかし、それを素直に謝ることなど、俺にはできるはずもなかった。
彼女が今、一体どんな表情をしているのか。怒りに任せて吐き捨てた言葉から目を背けた俺は顔を上げることが出来ない。
いつもの、あの鉄仮面の様に冷たく硬く、何処までいっても別の世界の住人みたいな。そうであって欲しいと、俺はまた、自分勝手に願う。
小さく細く、それでも確かに、彼女の口から息を吸う音が聞こえた。
「貴方も瀬畑さんも、そして木牧君も、みんなおかしい。同情や逃避、保身はあまりに醜い。私には理解できない、したくもない。本当に愛し合っているのならば、相手のどんな部分でも知りたいと思うはず。だってそれが相手を受け入れるということだから。そのはず、そのはずなのに、
……それなのになぜ瀬畑さんはあんなに悲しそうな顔をしていたの?」
必死に絞り出したその言葉は、彼女が目の当たりにした現実の醜さをそのまま糾弾していると共に、それを少なからず理解してしまったことに対する葛藤をはらんでいるようにもみえた。
『人を想う』、それを本当に理解していないのは俺と八河、どちらなのだろう。いや、理解していないのはお互いにだ。それだけは言える。
でも、必死に理解しようとしていたのは一体誰だったのか。
そんなの、火を見るよりも明らかだった。
俺はソファの上に置かれたセカンドバックを肩で提げ、立ち上がる。
逃げ出したと言われるだろうか。
それでも、彼女の真剣な問いに答える術を持たない人間は、きっとこの場に居るべきではない。
半開きだった部室のドアに手をかける。軽く錆びついていて、立て付けも悪い。それでもこんなに膂力を必要としていたわけはなかった。
軋むドアの音に被せて、俺は八河に一言いってやろうと思っていた。
でも不思議とそんな気にはなれなかった。真剣な言葉には、真剣な態度で返さなければならないと、無様な俺のどこかにもまだそんな気持ちが残っていたのだろうか。
俺は振り返り、部室の窓の外に目をやる。まだ日は高く、運動部の掛け声がここまでクリアに聞こえてくる。
「なあ八河。人はそんなに強くないよ」
「……でも、そうあって欲しいと望むのは、私の傲慢?」
今度こそ、俺には返す言葉はない。
休日を明日に控えた部室棟には、いつもより人の陰が少なかった。俺は長く伸びた廊下を前に、ドアから手を離した。
――二週間後、朝の全校朝会。
壮大なブラスバンドの音に合わせて、夏の大会を控えた各運動部がユニフォーム姿で行進をする。運動部に属していない生徒たちの間をすり抜ける行列の中には、野球部である木牧の姿もあった。
教頭が激励の言葉を送り、各部のキャプテンが意気込みを告げる。去年もあった行事だが、併合による部活動増加の影響もあり、体感以上に時間が長く思えた。
その朝会の最後には、先週開催された各種文化系大会の表彰式が行われた。
緊張故か、おぼつかない足取りで壇上に上がった瀬畑は、教頭先生から賞状を手渡されるときでさえ手が震えているようだ。
作品の題名は『弟の躍動』。
校舎の昇降口には引き延ばされた受賞写真が掲示されており、土ぼこりをあげながらサッカーボールを追いかける瀬畑の弟が映し出されていた。
彼女に向けられた全校生徒の賞賛の中で俺は、背番号順に並んだ野球部の列の中央で、木牧が力強い拍手を彼女に向けていることに気付く。
その木牧の想いが、壇上の瀬畑にまで届いていて欲しいと、俺は心から願った。
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