第13話

 じりじりと焼けつくような日光がグラウンドを照らしている。敷き詰められた白土は何十年も踏みしめられた影響で粒が細かくなっており、粘性はほとんど感じられない。目の前では半袖を肩までまくった男子がスライディングで相手のボールを奪い取ろうとしている。かなり上手くやらないと脛の皮膚が持っていかれそうだ。


 先週からの連絡事項にもあった通り四限の体育は自由時間だった。

 そういう訳で高跳びの助走や射法での会に同じく、三限の数学はどうしても鬱屈とした空気がクラスに漂うことになる。数学の江原には申し訳なかったが、こればっかりは仕方がない。

 

 この学校のグラウンドは長い一辺を体育館と教室校舎、短い一辺をテニスコートに面しており、それ以外を公道に向けて敷かれている。

 この学校自体が街の主要駅に近い位置にあるにしてはかなりの面積を誇り、放課後は野球部とサッカー部が分割して使用することが出来る。

 しかしいくら広いとはいっても、大人数を抱える二つの部活動がのびのび活動できる程の面積があるわけではない。さらに言えば併合による部活動数の増加からグラウンドを使用したいとする団体もかなり増えた。

 どうやら学校側もそうなることは予期していたらしい。来年には少し離れた場所に部活動用の第二グラウンドが開放される予定だ。


 合併によって一学年あたりのクラス数が増えた影響で、複数クラスが同時限に合同で体育を行う必要性も出てきたそうだ。そうしなければ本来必要な体育の授業時間数を割り振ることが出来ないのだろう。今だってグラウンドでは男子、体育館では女子が三クラス同時に授業を行っている。

 これに関してはかなり学校や生徒会側の思想が混ざっているように思える。まあ誰も口に出すことは無いけど。


 別クラスの誰かが提案したクラス対抗のミニゲームでの出番を終えた俺は、休憩用のベンチがある方の反対側へと足を動かす。

 向かう先、体育館と横並びになっている校舎の裏には弓道場がある。そこからぐるりと校舎を取り囲むように何本もの木が植えられおり、陽射しを避けて休憩するのにはちょうどいいと知っていたからだ。いくら自由時間といえども教師の目はある。目のつくところで長時間休んでいては、サボりにとられてもおかしくは無い。

 だがそれもこれも建前上の理由だ。俺がこの場所に足を運ぶのにはもっと違った明確ながある。

 

 グラウンドから校舎裏へ向けて入っていくと、体感でも分かるぐらいに気温が下がっている。大型建築で生まれた剥離流が体にぶつかって涼し気だ。

 弓道場の脇を抜け、少し奥まった方まで入っていくと校舎と繋がる踊り場つきの勝手口が見えてくる。校舎内へと繋がる階段は程よい段差になっていて、腰を落ち着けるのにちょうどいい。擦りガラスがはめられた出入り口のアルミ扉は見るからに年季がはいっているが、しっかりと中から錠がかけられている。

 弓道場と公道、そして校舎の壁に四方を囲まれているため、誰かの視線が届くこともなく、いかにもここでサボってくださいと言わんばかりのスペースが生まれていた。


 この場所の存在を知っている生徒は数少ないだろう。

 そもそも校舎の裏手に用事があるような人間といえば、弓道場を利用している弓道部員と、あとは木々の管理や清掃をしている用務員さんぐらいだろ想像できる。それ以外の人間は、在学の三年間で足を踏み入れる経験すらないことが殆どの筈だ。学校のグラウンドにすら縁遠い俺がこの場所を見つけることが出来たのは本当に偶々だったのだ。

 だから俺はに該当する人間が校舎裏に入っていくその意味を考えないわけにはいかなかった。

 

「おいおい、あの木牧一郎さんが授業をサボって何をしてるんだ?」


 本来であれば人ひとり座る分には余裕があるはずの勝手口階段は、その男の体格をもってすればむしろ手狭にすら感じられる。 

 予期せぬ訪問者であろう俺に声を掛けられた木牧は、意外にも驚いた素振りすら見せなかった。


「何の用だよ? まさかサボってる俺を教師に報告してせこい点数稼ぎでもするつもりじゃないだろうな」


 言葉とは裏腹に木牧の口角は楽しそうに上がっている。


「ただ涼みに来ただけだよ。それにこんな入り組んだ場所、俺以外にも知ってる奴がいるなんて思わなかったな」


「一年生の時に先輩から教えてもらった。監督にも見つからない良いサボり場所があるってな。いつ使うんだってぐらいに思ってたけど、何でも覚えておくもんだな

 ……座れよ、芦間。俺に話があるんだろ」


 先ほどの柔和な口ぶりから一変して、木牧は真剣なまなざしで俺を見つめる。


「ただ涼みに来ただけって言ったはずだけど」


「お前は理由もなしに誰かを追いかけるような奴じゃない。俺に言わせれば一年の頃から変わらず、な」


 どこか懐かしむ様な表情で木牧は空を見上げる。男子校時代、木牧と行動を共にしたことは何度かある。しかし彼がどのことを指して言っているのか、俺には見当がつかない。


「昨日の練習だって、外野フェンス越しに俺を見てただろ?」


「気付いてたのかよ」


「ははっ、バレたくなかったらもっと上手くやれって。いくら陽が落ちてる時間だったとはいえ、制服の同級生が同じ場所に小一時間も立ち尽くしてたらそりゃ気にもなる」


 瀬畑に別れを告げたあの後、俺は学校のグラウンドまで急いで戻った。

 サッカーボールと野球ボール。陽が落ちる夕方にどちらがより早く見えなくなるかは分からない。少なくともあの時、颯太はサッカーボールを見失い始めていた。

 かなり急いではみたが俺が学校に辿り着く頃には、より一層暗さが増していて、ボールなど見えない程だった。

 急ぎ損かと思った直後、野球部が白球を打ち響かせる音が止んでいないことに気付いた。二年生になって数か月経とうとしているのに、俺はこの学校に夜間照明が設置されていることを知らなかったわけだ。

 練習風景は見たいけれど、出来ればこの姿は誰にも見られたくない。そんな俺の思惑に対して夜の暗さはかなり都合の良い状況だと思っていたけれど、どうやら木牧には気付かれていたようだった。


 小さく息を吐いた木牧は腰を浮かせて体を一人分奥にずらす。

 その好意を拒む理由はない。そしてなにより俺は、先ほどの紅白戦の疲労で下半身が悲鳴をあげている。もしかしたら木牧はそんな疲弊した俺の状態にすら気付いていたのかもしれない。

 行為をありがたく受け取り、俺は石段に腰を下ろす。


 一呼吸着けば自然と蝉の鳴き声が耳に入ってくる。遠くから聞こえてきているかと思えば、目の前の木に張り付いているあの蝉の鳴き声かもしれない。反響しているかのような蝉時雨の中で、俺は自分の所在地をしっかりと認識できているだろうか。


 数秒、あるいは数十秒の沈黙が俺と木牧の間に流れる。

 声をかけたのは俺の方だというのに、最初の言葉を選べない自分に辟易する。何を話すかは考えてきたつもりだった。

 しかし、いざ木牧という人間を目の前にして、想定と全く同じ行動をとれるかどうかを考えてはいなかった。こんなとき八河のように簡明直截な物言いが出来たらどれほど楽だろうかと思う。

 

 そんな俺の心境を察してだろうか、小さな笑い声と共に木牧が口を開く。 


「大会、近いんだ。授業は遊びだという訳じゃないけど、サッカーはどうしてもコンタクトプレーが多いから。キーパーも突き指が怖い」


「だったらグラウンド脇で休憩してれば良いじゃないか」


「近くで休んでたら嫌でも試合に参加させられるだろ? ……それにほら、あそこは体育館の中からでもよく見える」


 木牧の言葉の後半にはどこか暗さが含まれていた。そして俺の行動の意味に、木牧が気づいているという意味合いも。

 だから気づかないふりをするわけにはいかない。これは彼から投げられた明確なスタートの合図だ。


「瀬畑さんからお前についての相談を受けたんだ。仲の良かった木牧君が最近冷たい、だってよ」


 出来る限りのおどけるような口調で木牧に告げる。


「瀬畑がお前に直接? うちの異常な規則ルールをなしにしても想像が出来ない組み合わせだな」


「相談の場にたまたま俺が居合わせたって方が正しいかも」


「……そうか、小波渡さんか。確か幼馴染だったよな」


「そんなけったいな仲じゃない。ただの腐れ縁ってやつだよ」


 そもそもの話、瀬畑は三琴を相手として恋愛相談を行うつもりだったはずだ。本来個人間でなされるはずだったそのやり取りに八河(と俺)は『学園厚生部』という部活動の体を利用して割って入ったわけだ。


「昨日、うちの後輩に尋問をかけたのもお前だろ?」


「尋問なんて物騒な言い方だな、ただの質疑応答だよ。雑談といっても差し支えない程度のな」


「変な奴らに突然教室で囲まれて、って言ってたぜ。今度会ったらちゃんと謝っておけよな」


 窘める木牧は今のところ八河がこの件に介していることに気付いていない。なぜ風紀委員であるはずの八河が、学校の規則を無視してまで男女の仲を取り持つような行動をしているのか。誤解のないように第三者に説明するのは骨が折れる。聞かれないのであれば触れる必要はない。

 どこから話したらいいものだろうか。俺は一度木牧から目線を外して、少しずつ続ける。 


「瀬畑さんが言ってたよ。木牧君に嫌われるようなことをした覚えがない、気づかないうちにしていたのなら謝りたいってさ。それにもしも野球の邪魔になっているようだったら私はすぐに木牧君から離れるともな」


「……やっぱりそうか。悪いことをしたな」


 やっぱり、と木牧は言う。つまり彼には、瀬畑に酷い態度をとっている自覚があったということだ。

 悪く想っていない相手に対して負の感情をぶつける。その行動にどんな理由が紐づいていようと、前までの俺だったら怒りを覚えていただろう。少なくとも昨日までは間違いなく。


 遠くを見つめる木牧は、右のポケットから野球ボールを取り出した。常に持ち歩いているのだとしたら中々の野球馬鹿だとも言える。

 木牧はそのボールを手でいじりながら、勝手口前のスペースに後ろ向けに倒れ込む。その体勢のまま手首のスナップで器用にスピンをかけ、ボールを空中に放り投げては同じ位置でキャッチする。簡単そうにこなしているが、ミスなく成功させるには手先の細かな調整が必要な動作だ。肘をサスペンションのように上手く稼働させ、意外に重量のあるボールを無音で受け止める。


「なぁ木牧」


「なんだ?」


「お前さ、もうエースじゃないんだろ?」


「……ああ」


 手のひらとボールがぶつかる音がする。一瞬の停止の後放り出されたボールは高い放物線を描き、鈍い音と共に土草の上へと落下した。


「よく気付いた、なんて言うつもりはないぜ。別に隠していたわけでもないしな」


「分かってるよ。それでもその勘違いが瀬畑の相談の原因であることに間違いない」


 俺は大きく深呼吸をする。座り姿勢だとこんなにも肺に空気を取り込めないものなのか。あるいはこの状況が、俺の心肺機能をどうかさせてしまっているのかもしれない。


「……後輩くんとの会話が最初の違和感だった。彼はエースのお前に憧れてこの学校に入ってきたと確かに言っていた。だがそれはあくまでも去年の話だ。今年の木牧一郎が同じく野球部のエースであるとは言っていなかった。

 俺たちはずっと勘違いをしていたんだ。誰よりも木牧一郎に詳しい筈の瀬畑ひとみが、木牧一郎は野球部のエースだと言っていたから。

 そんな彼女はこうも言っていた、『木牧君は今年エースになったから』と。

 スポーツに疎い瀬畑さんは大きな勘違いをしていたんだよ。昨日偶々会った彼女の弟は少年サッカーのエースだった。ユニフォームには『10』の背番号が縫い付けられていたよ」


 河川敷で俺は瀬畑に木牧の写真を見せてもらった。瀬畑が撮る人物写真は正面からの画角が殆どで、表情の写らない写真は無い。しかし春の大会に限っては、自然体の木牧の写真を撮るために、様々な角度からの木牧が写されていた。その写真フォルダの最後には、背面姿の木牧が映し出されていた。

 彼が背負っている背番号は、高校野球では二番手投手をあらわす『10』番だった。


 瀬畑は木牧をよく観察している。背番号が変化していることにも気付いていたのだろう。しかしスポーツに疎い瀬畑にとって、その番号が何を意味しているのかを正確に把握することは難しかったのだろう。そしてその知識の穴は、身近な存在である弟の存在によって補完されたのだろう。

 それらの写真は本人である木牧の元にも届けられたと瀬畑は言っていた。


「もしかしたらお前には、木牧一郎をいまだエースだとする瀬畑さんの言動が今の自分を揶揄しているように思えたんじゃないか? 確かに言葉だけであればそう捉えてしまうのは無理もない。でも瀬畑さんは単に知識が無いだけだ。悪気なんてこれっぽっちもなかったんだよ。

 瀬畑とお前はすれ違ってるだけなんだ、仲直りだってすぐに出来る。俺からも彼女に――」


「芦間、もう良いよ。ありがとう」


 まくしたてるような俺の言葉を遮るように木牧が口を開く。

 低く、それでいて芯に響くような声だった。


「少し昔話を聞いてくれないか」


 木牧の問いかけに対し、俺は無言で肯定の意を示す。


「俺と瀬畑が出会ったときの話は聞いてるか?」


「……それとなくは本人から。確か去年の夏の大会がきっかけだとか」


「写真部の大会に出す作品を模索しているときにたまたま訪れた運動公園が大会の会場だったらしい。その三日後だったかな、直接学校に連絡がきたんだ。『貴方の写真を展覧会に出したいのだが許可を貰えるだろうか』ってな。最初は断ろうと思った。だって写真に映ってる俺は敗戦で泣き崩れてて、更に恥ずかしいことに一番悔しいはずの先輩に支えられてたんだからな」


 恥ずかしいという言葉とは裏腹に、どこか楽しそうな声音で木牧は続ける。


「でも三日間もすれば、気持ちの整理ってのも大体ついてくるものでさ。誰かの糧になるのであればまあ良いか、って思いで了承したんだ。そしたらその日の放課後、瀬畑が校門の前で俺を待ってたんだよ。直接感謝の気持ちを伝えたいって言ってさ。中々肝の据わったやつだと思わないか?」

 

「俺が同じ立場だったら電話口でありがとうと言ってそれで終わりかも。……もしかしたらその時点で瀬畑にはその気があったのかもしれないけど」


 かもしれない、という言葉は間違いだ。その時点で明確な好意を持っていたと瀬畑は言っていた。一目ぼれと言い換えることも出来るかもしれない。だがそれを俺の口から木牧に伝えるのはあって良いことじゃない。


「はは、もしかしたらな。でも当時の俺にはそんな考えは全くなかった。それに写真なんて俺は全く知らない領域だったからさ、面白い女子だなって思う程度だった。それに彼女、凄く真剣なんだ。自分の好きなことに対して正直で純粋。羨ましくさえあったよ。

 だから併合の話を聞いた時には驚いた。一気に身近な存在になった瀬畑を意識し始めたのはその辺りからだったと思う。もちろん野球部の皆には内緒だったけどな」


 木牧は上半身の筋肉だけで体を起こし、立ち上がる。数歩歩いて地面に転がったボールを拾い上げると、下手で俺に放り投げてきた。

 縫い目の見えやすい軽いスピンがかかったボールは、寸分たがわず俺の手元に向かって届けられた。

 目の前の木牧は左手をミットのようにして構えるポーズをとる。ここに投げろと言うことなのだろう。素手でボールを捕っても怪我をしないのかと思っていたが、俺程度のボールを捕り損ねるほど木牧の技術が劣っているとは思えない。

 俺は小学生の記憶を呼び起こし、ぎこちないフォームでボールを木牧に投げる。ボールは俺の手を離れると、木牧の頭上辺りに向かって真っすぐ進んでいった。


「中々いい球を投げるじゃないか。経験者?」


 そう言いながら木牧はまた下手でボールを投げてくる。胸の辺りにドンピシャだ。


「小さい頃にね。上手くならなくてすぐ辞めちゃったけど」


「誰だって最初はそうさ。俺だって少年チームのエースになるまでに三年かかった」


 意外だった。スポーツにしろ勉強にしろ、上手い奴はすぐに頭角を現すものだと思っていた。幼い頃は体格の差が如実に表れるとはいえ、少なくとも木牧はそれなりの時間を要したらしい。


「好きこそものの上手なれってやつだ。まあそこから高校までずっとエースだったけどな」


「自慢か?」


「昔のことぐらい自慢させてくれよ。……そう、俺はずっとエースだったんだ。高校に入ったときも期待の新人なんて持て囃されてさ。正直悪い気はしなかった。その言葉に見合う努力をしようと思っていた。

 当時の上級生の投手不足とも重なって、俺は入学一年からチームを背負うエースになった。期待と責任もあったけど、それ以上に真剣勝負の場に立たせてもらえることが何より嬉しかった……はずだった。

 キツい冬場のトレーニングを経て新入生も入部して、すぐに春の大会。瀬畑だって応援に来てくれる。選手としても瀬畑が望む被写体としても胸の張れる活躍をしよう、そう思っていた。

 でも1番を手渡されたのは俺じゃなくて、今年入ったばかりの一年坊主だった」 


 今まで守り抜いてきたエースナンバーを、ポッと出の一年生に奪われる。部活動といえど真剣勝負の場だ。実力で勝っているのであれば学年問わず活躍の場が与えられる。真剣であればあるほど、その環境に年功の序列は無い。

 そしてその事象は、紛れもなく去年の木牧自身が経験していることだった。


「その日から俺の眼に見える日常は一変したよ。部活では何をしていても一年坊主の姿が目に留まってしまう。チームは当たり前のように新しいエースを中心として作戦を練っていく。試合や練習の機会だって優先されるのは俺じゃない。

 エースなんて只の称号なんだって、そう思っていたはずなのに。手放してみれば、何よりその称号に依存していた自分に吐き気がした。女子と仲良くやってる姿だって、エースだから許されていただけかもしれない。遊んでいる暇があったら練習しろって、そんなチームメイトの声が聞こえてくるような気がした」


「そんなこと、誰も思って……」


 言葉は空虚だ。自分のことすら分からないくせに、相手が何を考えているかを推し量ることなど出来ないと、俺は瀬畑とのやり取りで気付いたはずだったのに。周りが木牧を悪く思っているわけがないと、そう言い切ることは酷く不誠実なのだろう。


「先輩や同期、後輩たちには本当に恵まれている。同期は信頼してくれているし後輩も慕ってくれている。一年エースは真剣に野球に向き合っているだけだ。

 先輩たちも優しいんだ。出場機会を奪っていたのは俺だっていうのに、嫌な顔一つみせずにポジションを勝ち取ろうと努力している。……腐っているのは俺だけ、俺だけなんだよ」


「木牧……」


 気の利いた言葉一つ思い浮かばない俺を横に、


「それとな、芦間。お前の推理は一番大事なところが間違ってるよ。

 さっき、俺と瀬畑はすれ違っているだけだって言ってたけど、それは違う。俺は自分の意志で瀬畑を拒絶したんだ。

 だって恥ずかしくて言えるわけないだろ? 今まではなんの抵抗もなかったけど写真を撮るのはもう止めてください。展覧会にも出さないでください。だって今の俺は一年生に一番を奪われた二番手投手で、誰かに見られるだけでも恥ずかしいから、なんてさ」


 歯噛みするような木牧の表情とは裏腹に、彼の手には力が無い。

 木牧はとっくに気づいている。瀬畑は少し抜けているけれど、鈍い人間じゃない。俺達に相談していなかったとしても、木牧がもうエースじゃないという事実にはいずれ辿り着くだろう。自分が無自覚のうちに木牧に与えた悪意。それに瀬畑が気づいたときの胸中を推し量ることは俺には出来ない。

 写真部が出場する展覧会の締め切りも近い。本来最も理想に近い被写体だった木牧からいい返事がもらえない以上、瀬畑には違うやり口が求められる。きっと楽な道のりではない。

 話し合う事すらしない拒絶は先延ばしと同じだ。日を経るごとに関係は腐り、いずれ地面へと落ちる。そうなれば収拾がつくことはない。降り積もる雪に閉じ込められるだけだ。


 気が付けば、グラウンドに響いていた喧騒はすっかりと消えていた。教師からの指示は、授業時間が終わり次第、各自解散という適当なものだ。余程のモノ好きでなければ、この酷暑の中に最後まで残っていることはない。


「このこと、出来れば瀬畑には黙っておいてくれないか。一日だけでいい」


「どうして一日?」


「今日の部活後には夏の大会のメンバー発表が行われる。そこが俺に残された最後の挽回の場だ。ここでエースナンバーを取り返せばいい。そうすれば瀬畑に嫌われることも、自尊心に呑まれることだってない。全て元通りになるはずなんだ」


 小さく呟くように木牧は口にする。

 俺はそのとき、自分が木牧の要求に対してどう返答するか、時間が掛かるのだと思っていた。だが口をついた言葉によどみは感じられなかった。


「分かった。瀬畑には週明けにでも教えることにするよ」


 そんな俺の返答に対し、木牧は意外そうな表情で質問をかける。


「依頼人に対する義理みたいなものはいいのか?」


 確かに俺達に相談を持ち掛けてきたのは瀬畑だ。

 だがよくよく考えてみれば木牧の不審な態度についての原因調査は、瀬畑が直接口にして要求してきたものではない。いくら言外に原因を調査して欲しいと言っていたとはいえ、拡大解釈をして行動に移したのは八河と三琴の判断によるものだ。つまり瀬畑に報告する義務は本来存在しない。

 だが木牧と話し合う判断をとったのは俺の意志だ。瀬畑への返答を保留する責任を二人に転嫁するつもりはない。でもだからこそ、事実を誰にどんな形で伝えるかの権利も俺が持っているはずだ。

 そして俺は木牧の要求を受け入れたいと思うだけの理由が有った。 


「お前には本を貸してもらった借りがある」


「あははっ! そんな昔の事よく覚えてるな。……でも、助かるよ」


 そう言って木牧はボールについた少量の土を払い、両手でこねて汚れを落とす。そうして何度も投げ返し、返された白球は、彼のポケットへと収められた。

 四限の終了を告げるチャイムが鳴る。俺にも木牧にも、この場に留まる理由はもうどこにもなかった。

 昼休みの教室を求めて次第に遠ざかる木牧の背中を目に、俺の口からは自然と言葉が漏れ出す。


「なあ木牧!周りがお前をどう思ってるかなんて知らない。でも俺にとってお前は、時代小説が趣味で下世話な話には顔をすぐ赤くする只の同級生だよ!」


 木牧はこちらを振り返らず、高く手を挙げて校舎の陰に消えていく。

 

 写真の中ではあんなに大きかった木牧の背中。

 今の俺の眼にはそれが、とても小さく見えた。

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