第10話
「うちのクラスの木牧っていったら、木牧一郎君のことか。確か野球部だったよね」
三琴はそう言いながら、鞄から大きめの紅茶のボトルと紙コップを取り出し、四人分を注いでいく。
俺は額に流れる脂汗がバレないようにハンカチで拭い、菓子で口が乾かないようにする配慮だろうか。有難くいただくことにする。
お面を被っていることによって一人だけ食べ飲みできないでいる八河が、恨めしそうな表情でこちらを見つめてきている気がする。でもお面越しなのでしらをきる。
「……芦間くん。木牧一郎君とは面識はあるの?」
「木牧なあ、確かに一年生のときも同じクラスだったし知り合いではあるよ。……でも仲が良いかって聞かれたらどうだろうな。別に学校外で会うような間柄ではないし」
休み時間に目が合ったり、授業で同じ班だったりしたなら勿論喋りはする。
うん、そういえば本の貸し借りもしたことがあった。
あれは去年の冬のことだ。窓際のヒーターに身を寄せながら本を読んでいたときに、五厘刈りの名残がある頭の木牧が突然声をかけてきた。どうやら、購入を迷っていた本を俺が偶然読んでいたらしい。本を借りるだけでは申し訳ないので、自分のおすすめの本も貸すと言ってきた。
次の日に木牧が持ってきた時代小説を受け取ったとき、意外な趣味だなと思った記憶がある。おすすめというだけあって、初修者でもすいすいと読めるぐらいに中身は面白かった。
「まあ文理って休日は滅多に外出しないもんね。その定義でいうと、仲が良いって言える友達なんて一人もいないんじゃない?」
「この歳にもなって親友といえる人間一人いないなんて、悲しい人……」
「世の中で、お前にだけはかけられたくなかった同情だよ。というわけで、木牧と俺の関係性なんてこの程度のモノなんだ。申し訳ないけど」
だから深いお願い事は叶えられない、と暗に瀬畑に伝える。しかし、どうやら瀬畑はそのことまで織り込み済みだったらしい。考え込む表情すら見せなかった。
「大丈夫。私がここを訪ねた理由っていうのは、つまり男の人特有の感覚を聞いてみたくて。それを話す前に、とりあえずこれを見て欲しいんですけど」
そう言った瀬畑は鞄から数十枚の写真を机の上に取り出した。
俺と八河はその数枚を手に取り、一枚一枚眺めていく。そのいずれもの中心に写っていたのは、ユニフォーム姿の木牧だった。
様々な角度、あるいはシチュエーションで撮られており、背景から推察するに、かなり長い期間と情熱をかけてまとめられてきたことが分かる。
しかしだ。
「……瀬畑さん。これは少しまずい」
「好きな相手を写真に収めたいという気持ちは分かる。でも相手のプライバシーもあるし、なによりこれはいわゆるストーカーというやつじゃ……」
「ち、違う! 何か勘違いしてるかもしれないけど、これは作品としての木牧君の写真だから! 彼には勿論撮影の許可を貰ってるよ!」
そういった瀬畑をよく見ると、スクール鞄のほかに小物を入れるには少々サイズが大きすぎるバッグをもう一つ持っていることに気付く。そこから取り出されたのは、細い線の瀬畑の印象とは対照的な、黒々とした一眼レフカメラだった。
彼女はそれを目の前で構えて言う。
「私、写真部に入ってるんだ。部活では風景写真を撮るのがほとんどなんだけど、私個人としては人を写すのが好きなんだよ。時間を切り取ってる感じがするんだ。
それで、人が多いから運動公園によく撮影に行くんだけど、そこで試合中の野球部をたまたま見つけてさ。それが彼を撮り始めた理由。だからちゃんと本人に許可は取ってるんだよ」
俺は数ある写真の中に何枚か、カメラ目線の木牧がいることに気付く。自分がカメラに写されている認識もあるし、それに向けられている表情はどれも笑顔だ。彼自身、瀬畑から写真を撮られていることに悪い感情を抱いていないことが分かった。
「……でも試合ってことは野球部勢ぞろいなはず。どうしてその中で木牧くんを?」
「そ、それはグラウンドの真ん中に居たからたまたま目に入ったんです。それに何というか、木牧君って絵になるっていうか、華があるっていうか……」
「お、うぇいうぇーい」
茶々を入れる三琴を、頬を赤くした瀬畑が何とか制止しようとする。
そんな二人の光景をよそにして、隣に座る八河は一枚の写真を手に取り、不思議そうに見つめていた。
「どうかしたのか?」
「この写真……。確かに木牧君ではあるけれど、なんだか違和感がある」
差し出してきた写真を覗き込む。そこに写っていたのは、背中にエースナンバーをつけてマウンドに上がっていた木牧の姿だった。確かに顔は木牧その人に違いなかったが、八河が言う通り、クラスで見ている彼とはどことなく違う部分がある気がした。
もう一度観察すると、その違和感に気付くことが出来た。髪の長さだ。
かなり短く刈られているはずの木牧の髪は、この写真を見る限りではそこまでの印象を受けない。精々が短髪といった印象だ。
「それは去年の秋の写真だよ。今の木牧君とは印象が違うのはそのせいじゃないかな」
「去年ってことは、まだ高校が合併する前だよね。じゃあ二人は、同じクラスになる以前からの知り合いだったんだ。なんで言ってくれなかったのさ」
「だって、こんなの恥ずかしくて言えないよ。それにいくら部活動の一環だったとしても、風紀委員にバレたらどんな処分がくだされるか、想像もしたくないよ」
まあその風紀委員は君の目の前に座っているんですけどね。
それを聞いても八河は微動だにしない。ひょっとこの目に開けられた小さな隙間から、瀬畑が撮った写真をつぶさに観察している。
「なるほどねえ。でさ瀬畑ちゃんは私たちに何をしてほしいんだっけ? 話を聞いてる限り、二人は仲良く過ごしているように感じるよ。写真部の活動ってことなら、別に生徒会や風紀委員会もとやかく言ってこないと思うけどな」
学業や部活動に必要と判断されれば、生徒会は男女の交流をある程度は認めることは、この半年で分かってきている。それに瀬畑と木牧の関係性は、あくまで撮影者と被写体といういたって健全なもの。過激な判断や処置は下されないはずだ。隣に座る現役風紀委員も強い反応を示していない。
そんな俺たちの考えとは裏腹に、瀬畑は現状に不安を感じているようだった。
瀬畑は写真を手に取り、懐かしむように眺める。そして俯き、ゆっくりと口を開いた。
「前まではね、よく試合の応援に行っていたんだ。もちろんプレーの邪魔にならないように、一般の人も見に来るような対外試合を観戦してたの。応援に来てくれると嬉しい、力になるって、木牧君も言ってくれてたんだ。
でもこの前、試合には来ないで欲しい、写真部の活動にもしばらく協力できない、って言われちゃってさ。勿論、練習の迷惑になるようだったら私も無理にというつもりは全くないんだよ。でもなんでいきなりって気持ちはどうしても心のどこかにあって……」
そう口にした瀬畑の膝に置かれた手は、弱弱しく握りこまれていた。
撮られるのは迷惑だと、木牧がはっきりと口に出したわけではない。それでも、今まではうまくやってきていたはずの相手から急に拒まれれば、言外にそう言われたのと等しい。
きっと瀬畑は写真の撮影を断られたことよりも、木牧と自身の接触を拒まれたことに言い様の無い辛さを感じているんだろう。
「ねえ芦間くん。やっぱりこういうのって、男の人からすれば迷惑だったのかな? 木牧くんは、乗り気じゃなかったけどギリギリまで我慢してくれていたのかな。
わたし、高校生になるまで男の人と喋ったことが殆どなくてさ。だから彼が私のことをどう思っていたのか全然分からないんだ。やっぱり、野球部のエースの近くに私みたいな地味な女の子は不釣り合いだったのかな」
「そんなことないよ!」
三琴は突き上げるように身を乗り出し、瀬畑の両手を掴む。
「ぜんぜん地味なんかじゃない。自分の芯を持ってる人って、すっごく魅力的だと私は思うな」
そう言った後に俺の方を向いた三琴は、細めた目で何かを訴えかけてくる。
「うん、俺もそう思うな。多分木牧にも何か事情が有るはずだよ。それに男って生き物はこのぐらいの年齢になると、浅ましくも恋の駆け引きをするようになるんだよ。あえて突き放して相手の反応を伺ったりなんかしてみてさ。俺からみたら、多分木牧もそれに近いことをしているだけなんじゃないかな」
「そ、そうかな。男の人が言うのならそうなのかもしれないと思ってきたよ」
先ほどまでどんよりとした表情だった瀬畑の顔に、少しずつ明るさが戻ってくる。うんうんと頷く三琴がみせるしたり顔は少々鼻につくけど。
しかしそうは言ったものの少しこの話に気になるところがない訳じゃない。気休めのつもりで口にしたわけでも無かった。ただ確かに違和感が存在する。
だがそれを言語化するための時間を、俺は少しも持つことが出来ない。それ程までに隣に座る女子生徒の息遣いは剣呑なものだった。そしてその空気の違いは、机の向こう側の二人にはどうやら届いていないようだった。
瀬畑はポケットからスマートフォンを取り出したあと、壁にかけられた時計を見返す。そして驚いたような声をあげた。
「ごめん、もう帰らなきゃ」
瀬畑は机のうえに広げられた写真をかき集める、角をそろえて纏める。
手元の液晶と時計の針を見比べると、時間が微妙にズレている。この部屋の時計が未整備なのは誰に文句を言えるわけでも無い。そもそも誰も立ち入っていなかったのだ。とっくに電池の切れていた時計は、どうやら偶然にも厄介な位置で止まっていたらしい。
「なにか用事があるの?」
「下の弟の迎えに行かなきゃいけないんだ。サッカークラブの終わりがもうすぐ。両親の帰りが遅いから、夕飯も私の役目だしね」
「へえ、それは大変だな」
「ううん、全然。毎日夜遅くまで働いてくれてる両親に比べたらこのぐらいどうってことないよ。それじゃあ三琴ちゃん、芦間くん、部長さん。話を聞いてくれてありがとうございました!」
浮つき気味の足取りの彼女は、こちらを振り返らずに階段を下っていく。弟を迎えに行くときに怪我をしないと良いけれど。そうして俺と三琴は彼女を見送ると、身を翻して部室に戻る。
だが問題はここからだ。なぜだか途中から一言も発していない八河は、瀬畑の見送りに立ち上がろうともしなかった。
微動だにしない八河が身につけているお面を、三琴がおそるおそる外す。一見してみる限りでは、いつもの八河のままだ。だが明らかに、纏うオーラがいつもと違う。稼働限界ぎりぎりで熱を持った黒物家電みたいだ。
「なんでそんなに機嫌悪いんだよ」
「不機嫌ではない」
「そうは言っても、じゃあなんで途中からずっと喋らなかったんだよ。無言で動かないひょっとこ人間なんて、知らない人が見たらB級ホラー映画の撮影かなにかと勘違いするぞ」
「……」
「無言だと何もわからんのですけど……」
会話のキャッチボールを拒否しようとする八河。語りたくないのか、あるいは語る何かを持っていないのか。
だが一つだけ分かったことがある。彼女はどうやら本当に、不機嫌というわけではなかったらしい。
多分、八河は嘘をつかない。つけないとも言えるし、多分つく意味も分からないのだ。だから彼女の口にする言葉はすべて、飾ることなく本心だ。だから、俺から不機嫌かどうかと尋ねられれば、そうでなかった八河はNOと返すだけに留まる。
だからいま彼女に投げかけるべきは違う質問なわけだ。
「八河さんはさっきの話のどこが気にかかったの?」
「……分からなかった。」
「分からなかった? なんで木牧が瀬畑を拒んだのかって部分が?」
「違う」
八河は小さくかぶりを振る。
「私には分からない。そんなに気になるならなぜ本人に直接訪ねないの? それが一番手っ取り早くて確実なはず」
おもちゃのビックリ箱のように飛び出した言葉は単純な疑問。八河は上半身を俺たちの方に向け、まくしたてるように続ける。
「瀬端さんは、木牧君がどう思っているかを知りたいと言っていた。だけどその後が分からない。なぜその心意を、本人ではなく赤の他人である芦間くんに尋ねるの? いくら同性だといっても、貴方と木牧くんの思考回路が似通っているとは決して思えない」
伸びた背筋から放たれる言葉は、今日の気温にはまるでふさわしくない程に冷たくて鋭い。いや、冷たいというよりはただ平温なのだ。無機質であるとも言える。
「部長、そういうことじゃないんだよ。直接聞けるなら誰もこんなに困ってない。相手の本心を知るっていうのは誰だって怖いモノなんだよ」
「だったら最初からそう言えばいい。芦間くん、瀬畑さんは貴方に対して、木牧君の本心を男の立場から考えて欲しいと言っていた。
でもそれはただの詭弁に過ぎないと私は思う。なぜなら瀬畑さんの本当の望みは、木牧くんが見せている拒絶など本当はただの気を惹くためのポーズで、すぐに謝りの一報を入れてくれること。そしてまた関係は元通りで、いずれお互いの好意を認識し合い、晴れて結ばれること。そうでしょう?」
八河が投げかける詰問を聞くにつれて、自分が苦り切った表情になっていくことが分かる。
八河は一定のテンポを崩さない。
「だけど、もしも木牧君が本当に瀬畑さんを拒絶していたら? もうこれ以上関わりたくないと相手が考えているのにも関わらず、それを知ろうともしないことは悪だと思う。
私には、先ほどの瀬畑さんの行動は、ただただ現実逃避をしたいだけに見えた」
多分、俺も三琴も、瀬畑さんが本心で望んでいることと現状維持の行動の矛盾に気付いていたのだと思う。
しかし、その矛盾を指摘されることを彼女は望んでいない。少なくとも、彼女の口からは聞いていない。いくら明らかであったとしても、口にしないうちはそれが彼女の『本心』なのだ。俺達が深入りして良い領分じゃない。
でもどうやら、我が学園厚生部の部長の方針は違うらしかった。何かに突き動かされるように、八河はソファから腰を上げて、机の上に置かれた鞄を肩に下げる。
「準備して」
「なにを」
「聞き込みに行くに決まっている」
「なんで」
「彼女は新生学園厚生部に訪れた一人目の依頼人。彼女の評判なくしては、私たちの望みも果たされない。であれば隗より始めよ、と昔の偉い人も言っている」
その言葉尻を最後まで言い切る前に、八河は勇み足で部室の扉から出て行った。段々と遠ざかる八河の後ろ姿を俺は茫然と見送る。少なくとも、なぜ俺たちの利益につながるのかぐらいは教えてから行って欲しかった。
どうする、と尋ねる視線をもう一人の部員に向けてみる。聞くまでもない、なぜか少し楽しそうな笑みを浮かべている三琴は、いつの間にか戸締りの準備を済ませていた。
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