第二章 エースの品格

第9話

 六限終わりのこの時間。

 夏至はとうに過ぎているとはいえ、まだまだ陽は高い。窓の外から聞こえる規律の取れた掛け声は、チームとしての団結力を高めるためなのだろう。

 この活気は屋外だけじゃない。今居る部室棟は、右をみても左を見ても、退校時間まで有意義な時間を過ごそうと目を輝かせる生徒たちが行き交っている。

 つい先日まで、部室棟がこれほどまでに活力にあふれた場所だとは知らなかった。

 毎日のように足を運ぶ高校の一区画だとしても、帰宅部として一年の期間を過ごしていた身分では、このエリアに足を踏み入れる機会は滅多にないのだから仕方ない。日用品の買い物で頻繁に足を運ぶ行きつけのデパートだとしても、化粧品売り場の中が分からないのと同じ原理だ。

 目に入る各部室の扉には、部活動の内容をアピールするための看板が掛けられている。

 看板というのは言うなれば自分たちの存在と身分を対外的にアピールするための物である。つまり逆にいえば、看板すら堂々と掲げられない団体など、傍から見れば怪しさ満点に移っているわけだ。


「どうみても空き部屋にしか見えないよな……」


 目の前の部屋には看板や張り紙など一切されておらず、人の気配が全くしない。

 ここは多数の部室が連なった廊下の最奥。部活動の規模によって部屋のサイズはいくつかに分かれており、このブロックはその中でも弱小と呼ぶにふさわしい部活動群が軒を連ねれている。おそらく名前があるだけでろくな活動をしていない部もあるのだろう。隣の部屋の野草研究会の看板には、立派な蜘蛛の巣が張っている。

 俺は勢いよくドアノブを回し、扉を引く。しかし、ビクともしない。どうやら鍵がかかっているようだった

 中がどうなっているのか知らない訪問者であれば、ここで何も言わずに引き返すだろう。だが俺はこの扉の向こう側が無人でないことをしっている。

 数秒して、部屋の中から小さな足音が聞こえ、扉を挟んで向かい合わせになっている。

 俺は少し深呼吸して、昨日教えてもらった暗号を口にする。


「やま」


「かわ」


「……ほたか」


 返しの言葉を受け取った相手が内鍵を開ける音が聞こえる。

 開かれたドアから姿を表したのは、細く黒い髪と臙脂色のネクタイを身につけた女子生徒。少し涼し気な目元は、周りに誰かいないかどうか、警戒しているように見える。

 俺はその彼女の脇を抜けて厚手のソファへと腰を下ろし、机の上へと無造作に鞄を置く。


「なあ八河。あの合言葉は一体なんなんだよ」


「山川穂高は球界を代表するホームランバッター。何が有っても愚弄することは許されない」


「いやそこに文句があるわけじゃないんだけど」


 少し食い気味な八河の語気に気圧されて、もう合言葉などどうでもよくなってしまった。欠伸をした後で、俺は一日の授業の疲れもあってか、ソファに深くもたれかかり目を瞑る――。


「……ってちょっと待て! なんでこんな呑気に放課後の時間を過ごしてるんだよ! というか八河おまえ、この前自転車小屋で俺にこここ、告白を……」


「何をそんなに慌てているの」


 八河の頭の上には見える筈のない大きな疑問符がはっきりと浮かんでいた。


「確かに私が貴方に告白したのは間違いない。そしてそれが実らなかったことも。だけど、友達から始めたいと言ったのはまぎれもない貴方。

 そう言われてみれば私が読んだどんな恋愛小説も、互いを全く知らないところから男女が付き合うのは見たことがない。だからその要望通り、交友を深めようとしているだけ」


「うん? いや、確かにそれはそうなんだけど……あれ、なんかおかしいな」


「こういうもの」


「そっか……」


 何か丸く収められている様な気がしないでもないが、今は思考が上手くまとまらない。今日の六限は数学の小テストだった。苦手な教科という訳でもないけれど、特に頭を回さなければいけない二次関数の分野だった。だからだろうか、身体はすっかり疲弊しきっている。

 しかし八河はというとそんな小テストなんてへっちゃらなようで、疲れている素振りは一切見せない。机の上で書いている書類は風紀委員会の仕事のひとつだろうか。いつ見ても働いている。


「ちょっといいか。色々聞きたいことが有るんだ」


 八河は動かしていた手を止めると、上目遣いで俺の方へと目を向ける。


「何?」


「そもそもこの部屋は何なんだよ。俺たち以外誰もいないし部室棟なのに看板も立てられてない。入ってもいい場所なのか?」 


 昨日の晩、突然知らないメールアドレスから一通のメールが送られてきた。

 だがそのセキュリティ意識も何もないメールアドレスから、宛先人が八河であることも、おそらく誕生日だろう日にちもすぐに分かった。

 メールの内容はこの部室の場所と、謎の合言葉のみ。

 最初はただの悪戯メールかとも思ったが、それにしては内容が質素すぎる。もっと手が込まれてないと、悪ふざけも何も無いはずだ。

 この部屋は一体なんなのか。そんな俺の質問に対して、どこから答えれば良いのかを判断するために、八河は一瞬言葉を止める。そしてゆっくりと口を開いた。


「学園厚生部。それがこの部室に与えられている本当の名前」


「学園厚生部? 聞いたことない名前だ」


「それはそうかもしれない。この部は名前だけが残った状態で、かなり前から活動報告が止まっていた。それはもはや部としての体を成していないほど。そういった部活は、基本的に年度の変わり目で整理されるものだけど、おそらく新生徒会に移行する際の手違いで、そのまま放置されてしまっていたのかもしれない。

 そして今、私たちは学園厚生部の一部員として、この部屋を使用していることになる。生徒会役員の事務処理の穴を突くような手段でもあったから、少し準備に手間取ったけど」


 確かに部屋の隅に置かれた段ボールなどには、かなり長い年月放置されていたと思われる埃が被っていた。誰かが整理整頓をしていた形跡はない。その中でソファや机にだけその汚れが少ないのは、八河が事前に掃除しておいてくれたのだろうか。


「まあ、どうしてこの部屋を使えているのかは分かったよ。でもまだ肝心なことを聞いてない」


「肝心な事って?」


「どうしてそんな面倒な手段をとってまで、この部屋を使えるようにしたのかってことだよ。……その、友達から始めるっていうお前の望みを叶えるためなら、わざわざ部活動を用意しなくてもいいじゃないか」


「だってそれは公平ではない」


 彼女はそう言った。いったい何と何が公平ではないのか。


「人が人を想う。その価値を知るために、私は貴方と男女の仲になりたいと思っている。だけどそれは私の願い。そしてそれを叶えてもらうために、私も貴方の望みを叶えるよう極力努力するつもりがある」


「でもそれは、森下と岸谷の件で一区切りついたんじゃなかったか。あの二人を見逃す代わりに、俺は八河の言うことをなんでも一つ聞くって」


「でも貴方はそれを拒否した」


「いやそれは……」


 彼女は目を伏せ小さくため息をつく。呆れたような、悲しんでいる様な。八河の感情は相も変わらず読みにくい。


「でもそれは別にいい。むしろ、私の望みを叶えるためには彼らの事を見逃す以外に選択肢はなかった。であるならば、それをノーカウントとして捉えることもやぶさかではない」


「だから俺の望みも一つ聞くと?」


「そう。そして貴方の望みは、普通のまっとうな青春を送りたいというもの。私はそれを叶えるための協力を惜しまない。それがひいては、私の望みを叶えることにもつながるから。この学園厚生部はその最初の一手」


 ただありきたりな青春を送りたい。


 男子校から始まった俺の高校生活。高校合併で叶うかと思われたそんな俺の望みは、男女不可侵条約という異性との交流を禁ずるルールによって、真に閉ざされたのだと思っていた。

 しかし、この学園厚生部はそんな不条理を覆す第一歩であると、彼女はそう言っているのだが。


「勿論、恋というものがそもそも無価値な感情であると判断できた場合には、即刻風紀委員として上告をする。当然私も処分対象だろうけれど、それは覚悟の上。理解の上で行動して欲しい」


「脅しのつもりか?」


「どう捉えるかは貴方の解釈次第……」


 そう告げる彼女の表情に、冗談の色は見えなかった。


「話が逸れた……。まず共通認識として、この制度を導入したのは学園長であること、そして生徒会長はその制度の執行代理人であるということを理解しておく必要がある。もしもこの制度を廃止しようとするならば、この二人のうちどちらかに異議申し立てをする必要がある。そのためにこの部活動が必要なんだけど……」


 大事な説明の途中で、八河が言葉を止める。そしてそのまま立ち上がり、何に使うか分からない小物が並んだ棚の陰へと消えた。


「な、なんだ……?」


 その行動がどんな意味を持つのか。それは、外側から回された部室の鍵によって明らかになった。


「ちょっと待っててね、今片付けるから……。あれ、文理じゃん。中に居たなら教えてよ」


 少し目を丸くしながら入ってきた女子生徒の名前は外ノ岡三琴。幼い頃からの知り合いであり、合併によって同級生となった。

 三琴は校則よりも少し短めにみえる丈のスカートと明るめの色の髪を揺らしながら、後ろにいる何者かに合図を送っている。


「さあさあ、少し狭いところだけどくつろいでいってよ」


 我が物顔で振舞う三琴の後ろにつづいて入ってきたのは、少し気弱そうでおっとりとした表情の女子生徒だった。しかもなんだか見覚えがある。


「こ、こんにちは。……あれ、芦間くん?」


「瀬畑さんだよね。はじめまして、は少し違うか。同じクラスなわけだし」


 瀬畑ひとみ。反応を見る限り、同じクラスの女子生徒であることは間違いなかった。かといって、当たり前だが話したことなど一回もないし、こちらの名前を知っていることは意外だと言える間柄だ。

 少し控えめな性格からも分かる通り、彼女はクラスの中で目立つような存在ではない。大人しい性格だとしても、立場や役職で印象に残る八河の様な人間もいるが、彼女はいわゆる『目立たない』人間なのだ。

 ではなぜそんな彼女の名前を、俺が知っているのかというと。


「二人とも知り合いなんだ。接点なさそうだけど」


「うちのクラスの中で、図書室に本を借りに来る男子は芦間くんだけだからね。それで自然と覚えちゃった」


「いつもお世話になってます」


 図書委員がどういった当番制になっているかは分からない。だが少なくとも、俺がよくいく週末の放課後に彼女が頻繁に務めていることは間違いなかった。別段会話を交わすこともないが、名前を覚えるぐらいのことは自然としてしまう。

 こちらとしては、多数いる利用生徒のうちの一人だと思っていたけれど、案外図書委員側の印象にも残っているらしい。近くのコンビニのあの店員も、俺の顔を覚えていたりするのだろうか。

 そんな考えに更けている俺のことなど関係なしに、目の前の二人は楽しそうに談笑をしている。八河と笑いあう瀬畑ひとみを見ると、大人しく、いい意味で人畜無害な印象が、一つ高いところに移ったように感じられる。


「そういえば、一体何の用でここに来たんだよ。ただお喋りするだけならこんな埃っぽいところじゃなくて、もっとオシャレなカフェにでも行ったらいいじゃないか」


「勿論理由はあるよ。そもそも学内で男子と女子が会話できるような場所はここしかないわけだし。ていうか、文理がここに呼び出された理由はまだ聞いてないの?」


「俺が?」


 そのとき、後ろの背中から何かがぶつかり合う音が聞こえてくる。無機物の周期的な衝突音ではなく、生き物が暗闇で蠢くような不気味な音が。

 話を中断し、少し驚いたような三琴と瀬畑をよそにして、唯一その物音の発生源を理解している俺は立ち上がる。そして物陰にある掃除用具入れの戸を開いた。


「内側から開かない仕組みになっていた。無念」


「何してんだよ……。っていうかなんだ、その変な恰好は」


 中から出てきた謎の生命体は、祭などでよく見かけるひょっとこの仮面をかぶり、肩が隠れるよう唐草模様の風呂敷を胸元で結んでいた。


「あ、あの芦間くん。その人は?」


 これまでの人生で一度も見たことが無いだろう不気味な生き物をまえにし、最初に比べて少し砕けた表情を見せていた瀬畑の顔が引き攣っている。


「えっとこの人はなんと言いますか……」


「私の名前はオクトパス河村。オーストラリアからの留学生でこの学園厚生部の部長をしている。どうぞ気軽に河村と呼んで欲しい」


 そう言って、八河もといオクトパス川村は空いている俺の隣に腰を下ろす。

 なんて破滅的なネーミングセンスなんだ。

 確かに男女の学業以外の交流を禁ずる生徒会の下部組織である風紀委員が、こんな場所で活動をしていると広まったら、事態が悪い方向に転ぶかもしれない。

 しかし、だ。その対応策として考えたのがまさかの変装とは。しかも信じられないぐらいの低クオリティ。

 確かに顔も見えないし、風紀委員会の証である臙脂色のネクタイも隠せてはいる。だがこれは流石に見栄えが……。

 訝しむ表情の瀬畑は、オクトパス河村の動向を伺うように、目を細めて八河のお面に視線を向ける。


「せ、瀬畑ちゃん。これには事情が有ってね。はちか……じゃなかった、オクトパス河村さんはちょっと恥ずかしがり屋で、初めての人に顔を見せるのが苦手なんだよ。悪い人じゃないから心配しないで欲しいというか、頼りになることは間違いないからさ」


 三琴は手をあれこれ動かしながら、オクトパス河村の奇行の弁明をする。

 それを聞いた瀬畑は、ようやく顰めた眉根の緊張をほどいた。


「なるほど、それなら納得がいきました。わたしも恥ずかしがり屋で河村さんの気持ちがよくわかりますし。なるほどお面か。参考にしてみようかな……」


 もしかしたら新たな奇怪!仮面人間!を生み出してしまったかもしれない可能性には目を瞑るほかない。


「よし、それじゃあ部長の件も解決したということで。本題に移りたいところなんだけど……」


 口をすぼませながら訊ねる三琴のからは、なんだか瀬畑を気遣う様な声色が感じられる。


「いや、三琴ちゃん。これは私の口から言わせて欲しい。

 実は私、気になる男の人がいるの。その人って一見明るそうだけど、本を読んで物思いにふける知的な一面もあったりして。話す機会は滅多にないんですけど、それでもいつの間にか彼のことを目で追うようになってたの。その人の名前は――」


 そう言った瀬畑さんの頬は見る見るうちに紅く色づき、少し俯きながらこちらを伺う表情は、いつかどこかのドラマの山場で観たことがあるようなものだった。

 おい、まさか。

 こんなシチュエーションが短期間に二度もやって来るとは。一人目はなにやら通常の恋愛感情からは百ヤードほど離れた場所からのアプローチだったけど。今回はどうやらそういう見えたトラップではないようで。

 これはまさか噂にききし、モテ期というやつなのではないだろうか。どうやら社会的な通説によると、モテ期は人生に三回訪れるらしい。小学生のときに近所のおばちゃんたちに大層可愛がられたのが一回目。

 そしてこの花の高校生活中に二回目が訪れるなんて――。


「同じクラスの木牧君! 芦間くん、確か友達だったよね!」


 はい、分かってました。

 それでも勘違いしてしまうのが高校生男子という生き物なんです。だから忘れてください。


 そしてそこのひょっとこ人間。その目でこっちを見るな。

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