第8話

「やっぱり三琴ちゃんだ。部活やってないのに一人でこんな時間までいるなんて珍しいね」


「よ、洋子ちゃん、とその隣は……」


「どうも、外ノ岡さん」


 そう三琴に投げかけられる声は、明らかに女性のモノではない。

 そしてとても聞き覚えのある、そして一番聞きたくない、まぎれもなく岸谷の声だった。

 まずい、俺が想像していたより、部活の終了時刻が早い。


「大丈夫だよ、岸谷くん。私と岸谷くんが付き合ってることを三琴ちゃんには伝えてあるからさ」


「そうだったんだ。色々とよろしく頼むよ、自治委員に知られたら停学どころじゃ済まない可能性があるからね」


「あ、あはは……、そ、そうだよね」


 明らかに三琴の頬が引きつっているのが分かる。

 この駐輪場は入り組んでいて、そして暗い。二人のいる位置から目視できるのは三琴だけで、俺と八河は見えていないのだろう。


「そういえば、外ノ岡さん。芦間のヤツを見なかったかな? 部活終わりに話があるからって駐輪場に呼び出されたんだけど」


 状況を飲み込めていないような声音で岸谷が言う。

 それもそのはずだ。俺がさっき岸谷に送ったメールには『部活終わりに駐輪場に来て欲しい。大事な話がある』としか書かれていない。

 時と場所が違えば勘違いされかねない文章だけど、それよりも時間が無かった。なんとか今日中に岸谷とコンタクトを取って、八河が二人に目をつけている可能性を伝えなければならなかった。

 でもそれが、こんな形で裏目に出るとは。

 頭を下げた俺の目の前にいる八河。彼女とここで遭遇してしまう状況なんて、その時点では一切考慮に入れてなかった。


「文理を探してるの? うーん、確かまだ校舎に居たような……」


 どうやら三琴も、俺たちの姿が見えていないことによる話の噛み合わなさに気付いているようだった。


「おかしいな。駐輪場で待ってると書いてあったんだけど……あれ、外ノ岡さん。背中にある黒い自転車は誰の?」


「いや、それは!」


 動き出した岸谷を止めようと三琴が焦った声をあげる。それは、岸谷の言った黒い自転車が、三琴のモノではなく俺が乗ってきたものだったからだ。

 そして、ここでゲームセットのブザーが鳴る。

 三琴の粘り強い投球も虚しく、森下と岸谷は駐輪場の屋根の陰に隠れた俺と八河に気付き、事の重大性に気付くだろう。俺は観念、とばかりに顔を上げて、八河の方を振り向く。


 ――そのはずだった。


「あれ、芦間じゃないか。なに一人で土下座なんてしてるんだ?」


 こちらを覗き込む岸谷の声には、いつも通りの抑揚しか感じられない。まるで八河などいなかったように。

 俺は急いで顔を上げる。しかし、そこには八河の影も形もなかった。

 誰が見ても、一人の男が虚空に向けて五体投地しているだけだ。


「こ、これはその……」


 事情を説明しようとする俺の言葉を遮るように、岸谷は目を閉じて右手を横に振る。


「いやいい、みなまで言うな。事情はよーく分かったからさ。俺は部室で待ってるよ。外ノ岡さんとの話し合いが済み次第、連絡してくれ」


 にやりと口角をあげる岸谷は、おおよそ事態を理解していない。

 それでもさわやかに後ろ手をあげながら来た道を帰っていった。


「じゃあ私も帰るね、また明日」


「あ、うん」


 そう言って森下は、岸谷とは反対側の通路から自転車に乗って駐輪場を後にした。なんの問題もなかったかのように。


「どうなってるの? 八河さんはどこに」


「そ、そうだ。八河は……」


「私はここ」


 そう告げる細い声は、自転車小屋の間の通路よりも、更に暗く奥まった駐輪スペースの陰から発せられた。自転車と自転車の間にある細い隙間、男子高校生では決して入り込むことの出来ない小さな空間に、なぜか八河は挟まっていた。

 彼女は布擦れる音一つ立てずにその隙間から抜け出す。


「な、なんでそんなところに隠れて……」


「そんなことはどうでもいい。それより、私は貴方に頭をあげていい許可を出した覚えはない」


「あ、はい」


 頭をあげていい許可は貰ってないけど、頭を下げるよう命令された覚えもない。だがそれを言葉にすることは、ここでは何のメリットもないように感じられた。


「……なんでもする、と言ったことを覚えている?」


 そう尋ねた八河の表情は、その前髪の陰に隠れてよく見えなかった。


「ああ、言ったよ。だけどなんでもっていうのは俺の出来る範囲の話であって……」


「それは大丈夫。むしろ貴方にしか出来ないことだから」


 俺にしかできないこと、とは。想像がつかなかった。

 恥ずかしながら俺には何か人に自慢できるようなことなんて何もない。彼女に差し出せるものなんて、金銭ぐらいしか思いつかないけど。

 俺は伏せた頭の上で、これから告げる言葉の重さを知らせるような八河の呼吸音を聞いた。


「風紀委員会の権限のもと、森下さんと岸谷君の両名を不純異性交遊で退学処分とする」


「八河!」


「――ただし、貴方が私の条件を飲んでくれるのであれば話は別」


 通学鞄のファスナーが開く音がした。

 彼女が手に持った何かから、パラパラとページが捲れる音が聞こえる。


「八河さん、それ『キミ恋』だよね」


 こくり、と八河は小さく頷く。そしてその小さく引き絞られた口を開く。


「人が人を好きになる。あなた達には朝起きて歯を磨くぐらいに当たり前の事なのかもしれない。でも私は何度この本を読んでも、その感情を理解することが出来ない。

 ――面白いと、思えない」


 吐き捨てるような彼女の言葉に引き寄せられるように、地面へと向けていた俺の顔は、いつの間にか八河の方を向いていた。それに気付き、俺は慌てて頭を下げる。


「私は最初、ロバートが今回の行動を起こした理屈を、生まれの国による階層の呼称の違いであるとした。そして、そう信じて疑わなかったと思う。誰に尋ねることもなかったとも。

 でも貴方は違った。理屈だけ通ってるような私の考えではなく、ロバートとの持つ想いから、彼の行動の真意を読み取った。そして、その裏に隠された、岸谷君と森下さんの想いまで守ろうとした。

 それは決して、私の様な欠陥品には出来ないこと。きっと多分これからもずっと……」


 俺と八河の距離は、腕を目いっぱい伸ばしてもなお余裕がある。彼女の声は決して大きくない。耳を澄まさないと、その言葉端までを正しく聞き取ることが出来ない。


「でもね、芦間くん。今日、貴方と関わって少しだけ分かったような気がしたの。

 人が人を想うというのは、どれだけ覚悟のいることで価値のあることなのか。それを守ろうとした貴方の行動からこれらは裏打ちされていて、もしかしたら私にも……」


 もごもごと口ごもる八河の真意が、俺には少し分かったような気がした。


 彼女は友達が欲しいんだ。


 一人では経験できない心動かされる出来事を共有して学べる、そんな友達が。


「ああ、分かったよ。それなら俺にも出来る。この学校のおかしな規則がある限り色々と難しい部分があるかもしれないけど、出来る限り協力するよ」


 不完全な土下座という不格好な姿のままで言う。八河はとても驚いたような表情を見せる。そんなに嬉しかったのだろうか。


「……ありがとう。じゃあ改めてもう一度言う。森下さんと岸谷君の二名の不純異性交遊による退学処分を、私の権限で保留処分とする。

 そしてその代わりに、芦間くん。


 ――私と付き合ってください」



 そう言いながら、差し出された右手の意味を理解するまでに、何秒かかったのだろう。

 痺れた両足で立ち上がる俺の思考の回転数は、年代物の軽自動車のように安定しない。

 隣には両手で顔を覆う三琴がいる。少し開いた指の間からは彼女の大きな瞳が隠しきれていなかった。

 校舎からは、最終下校を告げるチャイムが聞こえる。もうすぐこの駐輪場にも、部活終わりの人間が殺到する頃合だ。時間は待ってくれない。

 大きく息を吸う。そして吐く。

 そして覚悟を決めて彼女の目をみつめ、こう言うのだ。


「友達から、よろしくお願いします」




 to be continued...

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