第7話

「ちょ、ちょっと、ロバートと宇木先生ってなに? それに洋子ちゃんと岸谷君に何の関係があるっていうのさ」


 事情を上手く呑み込めていない三琴は、俺と八河の間で視線を往復させる。

 八河はこちらを見つめて、顔を逸らすことを許さない。結論は俺の口から言えということだろう。もし華を持たせてくれようとしているつもりなら、なんて底意地の悪い気遣いなんだ。


「ねえ文理、説明してよ!」


「俺からは何も言えない」


 そんな駄々をこねたって、もう意味ないってのに。


「それってどういう……」


「私が答える」


 言い渋る俺の態度にしびれを切らした八河が割って入った。


「意図的に教室を間違えたということは、それに理由が有るはず。

 ロバート先生は決まって私たちのクラス、そして宇木先生の授業に訪れる。であるならば、そこに何かしらの理由が有るかもしれないとは、私も考えていた。

 そして私は、そこから逆説的に一つの予想を導き出した。

 それはロバート先生と宇木先生には、同僚という以外の特別な感情があるのではないか、ということ」


「特別な感情、って、ことは……あの二人って付き合ってたの⁉」


「あくまでその可能性が考えられたというだけ。でもそれを確信へと近づける要素が、一つあった。それが『香水』」


「香水?」


 八河は首を縦に振る。


「宇木先生は暑さで出る汗を誤魔化すためと言っていたけど、その後に、今日は三年生の教室と職員室の往復だったと言っていた。でもどちらの部屋もクーラーがついている。宇木先生が言っていた用途での香水は、あの時点では本来必要ない。それでも、今日の宇木先生にはどうしても香水をつける必要性があった。

 こと学校という場において、漂わせることすら制限されている匂いが自分の身体に移ってしまっているのを覆い隠すために」


「あれ、香水の匂いに校則なんてあったかな? うちって割と、身だしなみに対するルールは緩かったはずだけど」


「……煙草だよ。未成年の喫煙はそもそも法律で禁止されてる。そして教師には、その存在を生徒に示唆しないよう、注意が入っているはずだ。山永先生には関係ないみたいだけどな。そしてこの学校で煙草を吸っている人間は山永先生を除けば、ただ一人だけだ」


 俺の言葉に、八河は無言でうなずく。


「宇木先生が身につけている香水は、喫煙者のロバート先生から移ったタバコの匂いを消すための用途なのだと思う。

 ……そしてロバート先生は、宇木先生が漂わせている香りが自分と同じ香水のモノであることをアピールするために、わざわざ私たちの教室に訪れていたのだと私は考える」


「あ……そういえば宇木ちゃんの香水、覚えがあると思ったらロバート先生と一緒なんだ」


 車でも、あるいは家の中でもいい。喫煙者の身近な人物にはかなりの匂いが移る。そして教師であるロバートは、学生にその存在を想起させないように、匂いを紛らわせる手段の一つとして香水を活用している。

 しかし宇木先生は喫煙者ではない。匂いを誤魔化す術を常備してはいないだろう。一番身近なロバートの香水を応急処置的に借りることだってあるはずだ。

 ロバートが宇木先生の行動に関与しているかもしれないという疑いは、他の部分からもにじみ出ていた。

 教室に入ってきたとき、彼の片手にはラジオカセットが握られていた。ネイティブな彼の授業には、リスニング用の教材は必要ないのにも関わらずだ。

 宇木先生がリスニングテストを用意していることをあらかじめ知っていたロバートは、彼女の忘れ物に気付いてラジオカセットを届けに来たのかもしれない。単なる同僚なら、とは邪推がすぎるだろうか。

 詰まるところ、ロバートは単なるミスで教室を間違えていたわけではない。彼には彼なりの理由があり、自分が周りからどう思われようが関係なしに、自らの想い人に対する気持ちを貫いていたということになる。


「……あの人は、本当は頭が良いから、阿呆の真似が出来る……か」


「八河さん?」


 何か呟いていた八河は、しかし少し俯いていて明瞭にその言葉を聞き取ることは出来なかった。

 小さくかぶりを振る八河の隣で、三琴は一仕事を終えたという風に小さく気伸びをする。


「……でもさ、なんだか生々しい話だね。マーキングってやつでしょこれ」


「そんなこと言って良いの? これはあなたの友人である森下さんにもつながる話なんだけど……。そうよね、芦間くん」


「それを俺の口から言わせるのかよ」


「そ、そうだった。この話と洋子ちゃんたちの話がなんで繋がるのさ。二人が付き合ってることはこの話とは何の関係も――」


「二人が付き合っていることは認める、と。わざわざ本人たちに確認を取る手間が省けた」


「あ、まずった……」


 三琴の失言に対し、八河は間髪入れずに差し返しをする。

 でもこれは、もう既に露見していた事実に対する確認のようなものだった。


「もう一度言う。芦間くん、私は、貴方がロバートと宇木先生の関係性に対する推理を開示しなかった理由に見当がついている。そしてこういう場合に、被疑者の罪状を軽くする手段は一般的に明らかであると思うけれど」


「……自供しろって言いたいのか」


「貴方がそう判断するのであれば」


 分かっている。確かにこれは俺が負うべき責任だ。

 俺は身体を翻し体育館の方へと向ける。岸谷はあそこで今、最後の大会へ向けて汗を流している頃だろう。森下は、どこかで彼の成功を願っているのだろうか。ここまで届く筈もない、バスケットシューズと床の擦れる音が聞こえてくる気がした。

 俺はゆっくりと口を開く。


「この話、根っこは同じなんだ。付き合っている二人が同じ物を共有したいっていう根っこがさ。

 なあ三琴、覚えてるか。昼休みにどこかから帰ってきた森下の匂いがいつもと違うって言ってたことと、あのとき俺が扇風機の風下にいたこと。それでもって俺は岸谷の後ろの席だ。だから気づいちゃったんだよ。ああこいつら、昼休みにもしかして、ってさ」


 そして八河は俺の隣の席だ。岸谷の近くを通り過ぎることなんて当たり前によくある事なわけで。

 どんなに彼女が他者に対して無関心な性格であっても、自治委員会の職務に対しては真面目な人間だ。そうである以上、岸谷と森下の関係性を疑うという選択肢は残り続ける。いま、この場に八河がいることが、何よりの証左だ。


「この学校には教師のプライベートを縛るルールはない。責任ある大人の話だからな。でも生徒となれば、只の世間話すら許されていない。付き合うなんてもっての外だ。慈悲すらない。

 だから俺は、ロバートと宇木先生の関係性をほんの少しでも想像してしまう事で、八河が連鎖的に岸谷と森下の関係性に気付く可能性を過剰に恐れたんだ」


 そして、その結果がこのざまだ。

 俺の全ての目論みは八河に看破され、手の届くはずだった二人の関係性は事切れようとしている。


「ありがとう芦間くん。貴方の説明によって、これから私が詳しく二人を精査する必要もなくなった。自治委員会も、貴方の功労には最大限の配慮を――」


 無意識だった。

 それでも俺が八河に向けることの出来る最大限の誠意はこれだったから。


「どういうつもり?」


 膝と額を地面につけた俺を見つめる八河の表情がどんなものか、声音だけで分かった。


「……頼む、二人を見逃してやってくれないか。アイツら、本当は何も悪いことしてないはずなんだ。ただ年相応に恋をしてるだけじゃないか。それを阻む権利なんて本当はこの学校の誰にもないはずなんだよ」


「でも、それがこの学校のルール……」


「ルールが何だっていうんだよ。そんなに悪いことしたのかよ! 

 お前は知らないかもしれないけどな、人が人を好きになるっていうのはそれだけで凄い価値のあることなんだ。そしてその気持ちを互いに確かめ合うのは、それ以上に勇気のいることなんだ。

 ……いや、知らないって言うのは少し違うかもな。俺、お前がいつも大事そうに読んでいる本の中身をさっきチラっと見ちゃったんだよ。まさかお前も『キミ恋』を読んでたとは思わなかった」


「そうなの、八河さん?」


「……」


 三琴の問いかけに八河は何の反応も返さない。無言は、何よりの肯定だ。


「なあ八河。お前だって本当は、人が人を想うその価値を知りたいと思っているんじゃないのか。だから自治委員会に直接報告をせずに、一度俺たちに話を聞いてみたんだろ?

 俺はこの学校のような過酷な環境で二人が下した決断を尊重したい。

 だから頼む、八河。なんとか勘弁してやってくれないか。アイツの代わりに出来る限りの処分を俺が受ける。なんなら三琴の首も使ってくれて構わない」


「ちょ、ちょっと私も⁉」


「悪い三琴、だけどこれしか思いつかないんだ」


 俺は一度上げた額を再度地面につける。今の俺に出来ることはこれぐらいしか思いつかない。

 視界が灰色に埋め尽くされてから、気の遠くなるような長い時間が経った。だが気辛い状況というのは体感時間が長いともいう。どちらなのか図りかねていた中で、その答えは俺が想像する最悪の形で判明した。


「――あれ、三琴ちゃん?」


 重苦しい空気を破るような聞き覚えのある声は、俺がいる位置からは見えない位置から放たれた。


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