第6話

「――これで良し、と」


 俺はメッセージの送信ボタンを押して、画面を閉じる。後は少しばかりここで待つだけだ。

 時刻はもうすぐ十八時。地平線に取り残された長い波長によって、木々や校舎の壁が少しずつ赤く色づき始めている。

 この学校の駐車場は、催事に使われる特別会館と本校舎、それと体育館に三辺をぐるりと囲まれたつくりになっている。そしてその隅には自転車通学者用の駐輪場が設置されている。

 合併によって生徒数が増えたことから、元々ゆとりのあった三列屋根の駐輪場はかなり詰まっていて、時間に余裕を持って登校しない俺の様な人間は、屋根のない場所に自転車を止めざるを得ない。

 駐輪場を取り囲むように生えた木々が遮蔽となって、内からも外からも全てを見通すことが出来ないため、この時間帯では暗く湿った印象がある。さらに言えば部活動の終わりの時間にはまだ早いため、周りには人の気配すらなく――。


「やっぱりまだ学校にいたんだ」


「うぇいひ」


 情けない声が出てしまいました。

 だってここに俺以外の人間が、それも知り合いがいるなんて思いもしなかったから。

 駐輪屋根の陰から顔を出したのは、自転車のハンドルを片手で掴んで押している三琴だった。


「なんでお前がまだここに居るんだよ」


「先に職員室から出たのに、下駄箱に靴が入ってたからね」


「いやそれはここに残ってる理由にはなってないだろ」


 勿論、一緒に下校する訳はない。自治委員会にバレたら停学ものだし、なにより俺と三琴は下校を共にするような仲でもない。

 それでも、三琴がサドルを跨らずに俺を待っていたのには、なにか理由が有るはずだった。


「ここなら教えてくれるかな。八河さんの推理の間違っている部分をさ」


「はて、何のことだか」


「あれほど不審な表情をしておきながら、まだ隠し通せると思ってるその魂胆が気に入らないよ」


 疑わしきは罰するの外ノ岡三琴大原則の基、突き刺さるような視線を向けてくる。

 そもそも、三琴に隠すつもりはなかった。ただ、場所が悪い。


「いつから気づいてた?」


「教室に居たときから、と言うとそれは違うかな。でも、八河さんがロバートのミスの原因をグランドフロアの認識違いだと説明してくれていたとき、文理がうわの空だったことだけは分かってたんだ。でもそれは八河さんという人物そのものに納得がいっていないともとれる表情だったし」


「よくそこまで分かるな」


「伊達に長い付き合いじゃないってことだね」


 ふふん、と三琴は鼻を鳴らす。


「それじゃあ、いつ俺が八河の考えに疑問を抱いたと気付いたんだよ」


「文理が山ちゃんにロバートの話を訊ねたときかな。いつもの文理なら深掘りするような話題じゃないでしょ。それに文理が世間話をするときはもっと腑抜け……じゃなかった、穏やかな顔してるよ」


「いま腑抜けたって言ったよね。おれいつもそんな顔してるの?」


 聞き捨てならない三琴の一言を紙一重でいなしながら、俺は心の中で少し安心していた。

 三琴が俺の異変に気付いたのは職員室の時点だと、そう言ったからだ。つまり教室で話をしていた時点では、俺の行動に不審な部分は無かったということになる。

 三琴は感情の機微に聡い。誰が相手でも物怖じせず、会話の端々でみられる砕けた物言いも、相手との正しい距離感を図りとれる三琴だからこそ成せる技なんじゃないかと思う。

 そんな彼女が異変を察知できなかったということ。それが大事だ。

 脚を上げようとしたスタンドから右足を外し、俺は三琴の目を見て口を開く。


「扇子だよ」


「センスって、あの扇子?」


 手で仰ぐようなジェスチャーをとりながら、三琴は首を傾げる。


「少しおかしいと思ったんだ。ロバートが教室に入ってきたとき、手には教科書とラジオカセットを持っていた。そしてあの時、ロバートの胸ポケットにはトレードマークであるはずの扇子が入っていなかった。

 いつもは俺達に見せつけながら教室に入ってくる印象すらあるのに、今日はそれが無かったから」


「えっと、それは分かったけどさ。でもそれがどうして八河さんの説を疑う理由になるの?」


 もっともな疑問だ。でも勿論それなりの理由がある。


「三琴はさ、なんでロバートがいつも扇子を身につけているんだと思う?」


 古葉は少し考え込んで口を開く。


「なぜって、かわいい小物を皆に見せたいからだよね。良い物は周りと共有したいって気持ち、私には理解できるよ」


「確かにそれは有るだろうな。でもそれはロバートという人物が携帯している先入観が含まれていないか。扇子を持っている理由っていうのは、考えれば他にもあるはずなんだ」


「他にと言われましてもね。それ以外って言ったら仰いで涼むぐらいしか……あっ」


 俺は小さく頷く。


「そうなんだ。俺たちはロバートが扇子を携行している理由がファッションのみにあると捉えていた。でも扇子ってものは本来、暑さを和らげるために使う道具なんだ。そしてロバートは、扇風機を教卓から遠ざけて生徒に向けてくれる珍しい教師の一人だ。それでもこの暑さだ、自分が涼む手段も確保しないと話にならない」


 生徒思いのロバートは教室に一台しかない扇風機を自らが立っている教壇に向けることは無い。教鞭を振るうための体力は暑さで削られるわけだが、それを軽減するための努力というわけだ。


「暑さを和らげるための道具であるというのは、逆を言えば暑くない場所には必要が無いということだろ。つまりあの時のロバートは、自分がこれから授業をする部屋では体温管理のために扇子を携帯する必要がないと知っていたんだ。

 だって、本来ロバートが担当するはずの三年生教室には、クーラーが設置されてるんだから」


「そっか! もしそうなら確かに、ロバートが扇子を持ってきてないことの理由になるよ」


「そしてそれは、八河の言っていた『文化圏による呼び名によって一階と二階を誤認していた』という理屈にはそぐわない」


 三琴は顎に手を当て、眉間にしわを寄せながら考え込む。どうやら彼女にも思い当たる節があるようだった。


「……さっきロバートの扇子の話をしたときにみせた山ちゃんの反応って、職員室ではロバートが扇子を携帯する必要が無いからだったのかな」


「かもな。職員室も三年生の教室と同じでクーラーがついてるから」


 もしもロバートが、授業担当の教室が二階にあると分かっていれば、暑さをしのぐために、いつも通りお気に入りの扇子を胸ポケットに携えて教室に入ってきただろう。

 でもどうやらそうでは無かった。

 ロバートは自らの職務内容を理解した上でなお、教室を間違えて入ってきた道化を演じていたということになる。


「……なるほど、そういうことだったの」


「っ、誰だ!」


 不意打ちのように、校門に連なった石塀の陰から声が聞こえてくる。聞き覚えのある、そしてこの場において一番望んでいない女子生徒の声色。

 八河は下校時刻に校門を行き交う人々に身を隠して、俺達を待ち構えていた。


「あ、いやこれは違うんだよ、八河さん。私と文理はたまたま駐輪所で一緒になって、文化祭の話をしてただけでさ! そう、これは偶然で……」


「そんなことはいまどうでも良い。それに、話は最初の方から聞いていた」


「そんなことって、じゃあここに居るのは風紀委員の職務の一環じゃないってことかよ。だとしたら、盗み聞きなんていい趣味してるぜ」


「私はずっと最初からここにいた。気付かずに話を始めたのは貴方の方なんだけど……。でも芦間くんを待っていたのには違いないから、その糾弾はあながち的外れでもない」


「俺を待っていた?」


 この学校に制定されている男女不可侵規則により、学業に必要な機会以外で、男女間の会話は禁じられている。しかし、それはあくまで一般生徒間でのみに定められているルールだ。

 八河の所属している風紀委員会には、自治の為の特別ルールとして異性との会話が許可されている。だがそれも、業務で必要と判断した場合のみのはずだ。なぜなら、男子を目の敵にしている風紀委員には、プライベートで男子と会話をするメリットなど存在しない筈だから。

 しかし、目の前にいる八河は、それらの仕事などどうでも良い、と口にしている。

 それはつまり、彼女は完全な自己都合で、俺個人に用があるということだ。


「じゃあ八河さんは何でここに?」


 そう口にした俺の言葉の端は少し震えていた。それは俺が心のどこかであることを察知しているから。もしも俺の悪い予感が当たっているのであれば、これから先に選ぶ言葉は全て慎重に、そして最適でなければならない。

 墓穴を掘らないように、八河の真意を測る必要がある。

 でもそんな俺の薄っぺらな考えなど、彼女には一切通用していないことが、その瞳に宿る激情を見るに明らかだった。誤魔化すなと、そう言外に伝えている。


「芦間くん、なぜ貴方はこの推理を、あのとき教室で私たちに開示しなかったの?

 ロバート先生が乱入してきた件は、言ってしまえば只の雑談。正しい根拠かどうかなんて、どうでも良かったはず。それでも貴方はあの場で、説の一つに挙げることすらしなかった」


「い、いやでもそれは、八河さんの推理に水を差すような詰まらないことをしたく無かっただけで深い意味は……」


「その理由は、私がロバート先生と宇木先生の関係性を蔑ろにしてしまうような、そして連鎖的に判明する森下さんと岸谷くんの恋仲を、引き裂く存在だから?」


「っ!」


 彼女の発言の後、俺は自分の顔が強く歪んだことにすぐさま気づいた。

 八河は辿り着いていた。


 自らの行動が嘘に基づいているという事実が露呈したのと同時に、俺が別の結論に辿り着いたことを。


 そしてその結論から導かれる可能性が引き起こすかもしれない未来を恐れて、俺が口を噤んだことに。

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