「なあ、おッ父――」

 囲炉裏の向こうに座る父に、私は呼びかけた。父は半分眠りながら、うん? と答えた。

 父もだいぶ年老いた。漁の時も、舟に乗ってこそいたが作業のほとんどは私がやるようになっていた。最近では昔語りが増え、私が聞き役に回っている。自分の終わりが近いことを、薄々察しているのかもしれなかった。

 ただ、ある一つのことにだけは決して触れようとしなかったが。今宵私は、そこに切り込む心算だった。

「あの津波のこと、覚えとるか」

 父は頷いた。私は生唾を飲み込んで、言葉を続けた。

「あの日の前日、おッ母と俺とが、みちびき地蔵に集う亡者を見た。その話も覚えとるか」

 父は頷いた。目を瞑ったままだが、しっかり覚醒していると、私にはわかっていた。

「津波の後、おッ父がいなければ、この村は死んでいたろう。おッ父は英雄じゃ。じゃが、おッ父――俺ァ、あん時、おッ父が何か隠しとるような気がしてならんかった。何となくじゃが、おッ父の目には、俺らには見えん何かが映っとる気がしたんじゃ。おッ父、違うか?」

 寸時の沈黙があった。やがて父は目を開いた。凪いだ海のような、静かな目だった。

 さすがに敏いな――父は、そう言った。

「儂の倅じゃ、当然か」

「おッ父――じゃあ、やっぱり何か知っとったんか」

 お前が知り得ること以外は知らんわい、と父は答えて酒を啜った。

「覚えておるか。お前らが家に駆けこんできて、おッ母がみちびき地蔵のことを話したな。儂は本気にせなんだ」

「村に知らせようと、おッ母が言うのも止めたな」

「そうじゃ。絶対に、村に知らせるわけにはいかなんだのよ」

 どういうことじゃ――と、私は息を呑む。父は、深々と嘆息して言った。

「お前らの目に、儂はみちびき地蔵の話をまったく信じてないように見えたろうな。本音は、その逆じゃ。儂は話を聞いてすぐ、翌日に何か大きな災いがあると踏んだ。この村での災いといえば、第一に思いつくのが津波じゃ。だから明日の大潮の日、津波が来ると直感した」

「じゃ、じゃあなぜそれを、村のみんなに知らせなんだのじゃ」

 私は掠れがちな声で尋ねた。すっかり背が丸くなって小さいはずの父が、巨大な影を纏って、とんでもなく恐ろしい怪物になったような幻視にとらわれ、戦慄しながら。

 たやすいことよ、と父は答えて、包み込むようにして持っている湯飲みの水面に目を落とした。

「地蔵の前にならぶ亡者に、儂ら三人の姿がなかったからじゃ」

「――」

 浜吉、と、父は私の名を呼んだ。父に改まって名を呼ばれるのは、いつ以来のことだろう。

「海は、時に人をとる。海には、ある決まった数の亡者がおらねばならぬ決まりがある。何もこの村に限ったことではない。この国のあちこちで言われていることじゃ」

「――」

「儂は常々言ってきた。海で死んだ死人は、海のものだと。だから決して引き上げてはならぬと。引き上げれば――海から奪えば、海はきっと代わりを欲しがって、違う誰かが海にとられる。古来、海とは、そういうものなのだ」

「じゃ、じゃあ、あの時、おッ母が村に知らせていたら――」

「村の何人かは信じただろう。そして儂と同じように津波だと直感するものもいただろう。その結果、地蔵の前に並んだ魂の中で、助かる者がいたとしたら――海はきっと、代わりを欲しがる。そしてその代わりを――村に知らせたお前たちが担わせられることは、じゅうぶんありえた」

 私は絶句して、何も返せなかった。父はこの秘密を、何十年もの間、自分の中に仕舞い込んできたというのか。

「もちろん、命の選別なぞすべきではない。救える命があるならば、儂とて救ってやりたい。儂自身の命なら、くれてやるも吝かではない。だが――その身代わりとなって、お前たちをとられることだけは耐えられなかった。だから儂は――おッ母を止めたのだ」

「――」

「お前の目に、儂の姿が奇妙に映っていたとしたら、それが理由だ。儂は全てを悟っていた。が、傍観した。お前たちを失いたくないがために。そして、村を生き延びさせるために――。それがせめてもの、黙っていることの罪滅ぼしだと、自分に言い聞かせて――」

 後半は涙声になって、殆ど聞き取れなんだが、もうじゅうぶんだった。あまりに恐ろしく、あまりに哀しい秘密――すべては、私たちを守るための罪……。

 ――否、これを罪といえるのか。誰かが、父を糾弾することなどできるのか」

「お前とおッ母が、亡魂の群れに行き会わせたこと――それ自体にも、何らかの天の意味はあったのも知れん。が、儂にって大切だったのは、天命なんぞよりも目の前のお前たちじゃった。お前たちを守るために、儂は地蔵のごとく口を閉ざすよりなかったのじゃ」

 儂を蔑むか、そう父は訊いた。暫くの沈黙を置いて、私は首を横に振った。

(了)

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みちびき地蔵 @RITSUHIBI

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