17
小野寺さんが何を見たのか、私には結局わからないままだ。
もちろん気になりはしたけれど、彼女のスマートフォンを覗き込むために私が動いたら、今彼女が見ているものも位置を変えてしまうかもしれない。そう思うとそのとき、身動きがとれなくなった。
いつの間にか小野寺さんは私に問いかけるのをやめて、スマートフォンを食い入るように見つめていた。手に痛いくらいの力が籠っていることがわかる。その顔に浮かんでいるものがただの恐怖のようには思えなくて、私は言葉を失っていた。
何の音もしなかった。何も動くものはなかった。そうやって固まったまま、どれくらい時間が経ったかわからない。やがて小野寺さんがふいに動いて、テーブルにスマートフォンをコトリと置いた。
「小野寺さん」
呼びかけると、彼女は激しくまばたきをして、
「いなくなっちゃった」
と呟いた。それから絞り出すような声で「ごめん、ちょっと一人になりたい」と続けた。
「小野寺さん、ごめんなさい。私が」
「いい。いいの。見浦さんが悪いんじゃないって」
小野寺さんはフーっと大きく息を吐いた。「ごめん、私人前で落ち込むの苦手なの。悪いけど帰って」
私にはそれ以上かける言葉がなかった。取返しのつかないことをやってしまった気がして、ひどく胸がざわついた。
画面を見ると、すでに小野寺さんのアカウントは退出していた。私もツールを閉じ、立ち上がった。自分のバッグを持ちあげ、「突然お邪魔してすみませんでした」と言っておじぎをした。小野寺さんは首を横に振って答えた。
「その……また会社で。失礼します」
「うん。また」
小野寺さんは私を見送りに玄関までやってきた。私が表に出るとすぐにドアが閉まって、中から鍵をかける音がした。
エレベーターに乗って一階に下り、マンションを出た。誰にも会わなかった。一歩建物の外に出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。
小野寺さんは納得してくれたのだろうか。
たぶん彼女は画面越しに、部屋にいたものを見たのだと思う。そして私の目論見通り、それが「自分の子どもではない」ということをわかってくれたのではないか――さっき見た小野寺さんの表情を思い浮かべながら、そう考えた。
もしもあの「いなくなっちゃった」という言葉を信じるなら、あの部屋にはもう、死者のふりをするものはいなくなったということになる。なら小野寺さんがこれ以上あいつに引っ張られることもないのだろう、と思う。
ならよかった、めでたしめでたし――と素直に思うことは、なぜかできなかった。
小野寺さんは今、どうしているんだろう。彼女がどんなに厭がっても、私はあの部屋にいるべきだったのかもしれない。あの部屋で、怪しいものがちゃんといなくなったのかを、きちんと確かめるべきだったのかもしれない。
小野寺さんが言ったとおり、本当にあれはいなくなってしまったのだろうか。もし、まだあの部屋に潜んでいたとしたら。でも。
もしもそうだとして、私に一体何ができるだろう。
無性に悲しくなって、歩きながら涙がこぼれた。そのとき、小野寺さんにお守りを渡すのを忘れた、ということに気づいた。今となっては、それが彼女にとって必要かどうかすらわからない。
バッグの中に手を入れると、やわらかいものが手に触れる。「まりあちゃんのお師匠さんの知り合い」だという女性にもらった人形だ。触っていると不思議な安心感があった。
他に人通りはない。バッグに手を入れたまま歩道を歩き、声を殺して泣いた。どうして私が泣きたくなるのだろうと不思議に思いながらも、涙はぽろぽろと流れて止まらなかった。手で目元を拭いながら歩いていると、路肩に停められたトラックにぶつかりそうになった。
(だめだな、こんなことじゃ)
車道の側に一歩避けたそのとき、反対車線からヘッドライトの強い光が私の目に飛び込んできた。
それから後のことは、記憶がはっきりしない。爆発するようなものすごく大きな音を聞いたような気がするけれど、定かではない。
気が付くと私は、ひどく暗いところにいた。
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