03
「急に来ちゃってごめんなさい。留守番してたんだけど音が聞こえたから、見浦さんが帰ってきたかなって思って」
今日は習い事はお休みなのだという。「お師匠さんが出張してるから」とまりあちゃんは付け加えた。
日が落ちると外は寒い。私はとりあえずまりあちゃんを中に招き入れ、ダイニングテーブルに案内して温かい紅茶を出した。誰かが一緒の部屋にいるということが、ひどく有難い気がした。
まりあちゃんは私と、奥の部屋とをちらちら見比べている――ような気がする。全盲の彼女の目にはもちろん何も映ってはいないはずなのだが、ぱっちりとした両目を開けてあちらこちらに顔を向ける様子を見ていると、いかにも「何か見ている」ように思えてくる。
「そういえばこの前のガス、大丈夫だった?」
私が話しかけると、まりあちゃんは「うん」とうなずいた。「次の日に管理会社の人が来てくれて、すぐ直っちゃった」
それからまりあちゃんはまた何か言いたさそうに、でも言いにくそうにもじもじしていたが、思い切ったように「あの、すごく変なこと言うし、見浦さんにいやな思いをさせちゃうかもしれないけど」と口火を切った。
「その、見浦さんの弟さん――今そこにいる?」
まさに気がかりだったことを言い当てられたような気がして、どきりとした。まりあちゃんの焦点の合わない目が、私の方をぴたりと向いていた。
「その、気配っていうのかな……」
まりあちゃんは「説明が難しい」という風に首を傾げながら、それでも一生懸命私に話そうとする。
「その人の雰囲気みたいなのが、わたし、目が見えなくなる前よりわかるようになったの。ていうか、わりとそれをアテにして生活してるとこもあるのね。前に言ったっけ? けっこう当たるんだよって」
そういえば、そんな言葉を聞いたような気もする。確かにまりあちゃんは鋭い。私が話しかける前に「見浦さん」と振り向くこともあるくらいで、もしかすると目が見えている私なんかよりも、もっと周囲の物事を感知する力に長けているのかもしれない。
「こないだまでは見浦さん、見浦さんだけじゃなくて弟さんの雰囲気もくっつけてたの。一緒にいる人のがくっついてることってよくあるんだけど、それが前にこの部屋で感じたのと同じ雰囲気で……でも、一昨日あたりから見浦さん、見浦さんだけになってるの。ごめんね、わかりにくいと思うんだけど……」
「ううん、大丈夫。続けてくれる?」
まりあちゃんは「うん」と深くうなずいた。
「ええと、そう。見浦さんから弟さんの雰囲気がしなくなってるの。ついでにいうと、見浦さん自身の雰囲気もちょっと変わって、前はもっと薄い感じだったんだけど、今は普通の人と同じになってて――それはいいかな。えっと、とにかくそれで、弟さんはもうここにいないのかなって思ったの。それに別の場所で弟さんの雰囲気がしたから、外に出られるようになったのかなって……」
「別の場所?」私は思わず身を乗り出した。「それ、どこか覚えてる?」
「う、うん。わたしが通ってるお師匠さんが住んでるとこの近くで、ここから歩いて五分くらいかな。その雰囲気出してる人は男の人だったんだけど、見浦さん? って呼んだら違うって言われちゃった。後で思ったんだけど、その人もやっぱり弟さんの雰囲気をくっつけてただけだったんだよね、きっと」
その男性が誰かはわからないけれど、彼はきっと小野寺さんのところから出てきたのだろう。尚輝の雰囲気をくっつけたまま――
そのとき、私ははたと気づいた。いや、それは尚輝のではない。尚輝のようなものの、だ。
(だって、尚輝自身はもういないんだから)
その言葉が頭に浮かんだ瞬間、突然胸がぎゅっと締め上げられるような心地がした。
「見浦さん? どうしたの?」
まりあちゃんが問いかけてくる。「あのぅ、もしかして泣いてない? だいじょうぶ?」
いつの間にか、私の両目から大粒の涙がこぼれていた。
こんなささいなことで泣いてしまうなんて思いもよらなかった。どうしてか、今までで一番腑に落ちたのだ。「尚輝は死んでしまって、もういない」ということが。
まりあちゃんの手がダイニングテーブルの上を探り、私の手を見つけると、心配そうにそっと触れてきた。私は大人げなく泣きながら、彼女の手を握り返した。
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