02

「見浦さん、大丈夫? ちょっと」

 話しかけられて我に返った。総務課長が訝し気に私を見つめている。

「あっ、はい。大丈夫です……何か?」

「うん。もしできたらさ、見浦さん、小野寺さんのことちょっと気にかけてやってくれない? 女性同士ってのもあるけど、こないだ書類で見たらさ、見浦さんの住んでるアパート、小野寺さん家にすごく近いんだよ。歩いて五分くらい」

「そうなんですか?」

 意外だ。小野寺さんのような気さくな人なら、以前社内で話したときやリモート飲み会のときにでも、「実は私の家、見浦さんちの近所なんだ」みたいなことを言いそうなものなのに――と考えて、すぐにそうでもないと思い直した。

 小野寺さんは万が一にも「家近いんなら、小野寺さんのおうちに行ってもいいですか?」という話になるのを避けたかったのではないだろうか。彼女の家には亡くなった息子さんのためのスペースがあった。そこを片付けたくはないけど、人目に触れさせたくもない。なるべく秘密にしておくのが好ましいと思った――もしそうだとしたら、今の小野寺さんの態度はやっぱり異様だ。あまりにも短期間で変わりすぎている。

 私はまた、パソコンの画面ごしに見た黒い影のことを思い出した。何かが彼女を急激に変えてしまったのだとしたら、それはやはり――そう思わざるを得なかった。


 小野寺さんの変貌は早々に社内の噂になっていた。とはいえいきなり理由を問いただすような人はおらず、腫れ物のような扱いを受けている。私よりも社歴が長い人は小野寺さんがかつて息子さんを亡くしたことを知っている場合が多く、彼らは痛ましいものを見る目付きで彼女を眺めていた。

 当の小野寺さんはご機嫌らしく、「息子が待ってるから定時で帰らなきゃ」といつにも増して精力的に仕事を片付けている。去年入った子などは「小野寺さん、子どもいたんですね。知らなかったなぁ」と疑う様子すらない。それくらい「ありそう」な光景だった。もしも息子がまだ生きていたとしたら、小野寺さんはきっとこんな風に振舞っていただろうと思わせるような。

 誰も何も言わなかった。「小野寺さん、あなたのお子さんは亡くなっていますよね」なんてことは、普通は簡単に言えるようなことではない。座りの悪いまま終業時間になり、私は早々に仕事を切り上げて帰宅した。総務部をちらりと覗いたが、小野寺さんの席はもう空になっていた。

 歩きながら考えた。金曜日にリモート飲みをした。そのときに小野寺さんの背後に黒い影が現れ、通話が切れた。それ以降私の部屋では「気のせい」の現象が起きなくなり、小野寺さんは突然「息子がいる」と言い始めた――

 まるで何かが、うちから小野寺さんの家に移動したみたいだ。

 そう考えると、喉の奥がぎゅっと詰まるような気がした。私は責任を感じていた。あの小野寺さんを見て、「本人が楽しそうだからいいや」などとは、とてもじゃないけど思うことができない。

 ああなったのが、私の家にいたのせいだったとしたら。

 私は小野寺さんをあのまま放っておくべきではない、と思う。でも。

 私に一体何ができるだろう。


 自宅に入る前、無人と知りながらインターホンを鳴らした。中で何かが答えないだろうか、と思ったのだ。インターホンは当然のごとく無言で、私は溜息をつきながら鍵を開けた。

「尚輝」

 物音はしなかった。海の匂いも感じられない。

「気のせい」は一体どうしてしまったんだろう。最早ただの気のせいとは思っていないあの現象をいまだに「気のせい」と呼んでしまうことに、私は滑稽さと苛立ちを覚えた。

 じりじりと唇を噛んでいると、突然インターホンが鳴って、思わず飛び上がりそうになってしまった。呼吸を整えながらモニターを覗き込む。とっさに尚輝のことを考えた。『猿の手』のように墓場から蘇った死人の姿が思い浮かんだ。

『見浦さん? いる?』

 モニターの中に立っていたのは、白杖を持ったまりあちゃんだった。私の両肩から、ほっと力が抜けた。

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