05

 エレベーターを待っている時間も惜しかった。階段を使って三階から一階まで足早に下り、エントランスから外に出ると、ようやく一息つく気持ちになった。

 歩道に立って、今出てきたばかりのマンションを見上げた。姉の部屋はあの辺りだろう、と見当をつける。

 今、姉は何をしているんだろうか。僕が手をつけなかったロールケーキを文句を言いながら片付けたり、落ちたミニカーを元のところに戻したりしているのだろうか。

(あれが響じゃなかったら何なんだ)

 僕は頭の中で自分の言葉を反芻した。それに応えるように、姉の「これって響だよね?」という声を思い出した。

(響じゃないなんてこと、あるかよ)

 駅に向かって歩き出しながら考えた。名前を呼んで、専用のスペースを作ってやって、おやつも出して、また名前を呼んで、そうやっている家にやってきた何者かが、響じゃないなんてことがあるだろうか。もしも仮にそうだとしたら、それは姉にとってひどく残酷なことではないだろうか。

 そもそもあれが響であろうとなかろうと、姉の様子がおかしかったことには変わりない。果たして姉を放っておいてよいものだろうか? 歩きながら逡巡していると、突然「あれっ、ミウラさん?」という高い声がした。

 直観的に「今のは自分を呼んだな」と思った。もちろん僕の名前はミウラではない。「小野寺透」に「ミウラ」と聞き間違いをする要素はないと言っていい。それでもその時僕は、今自分が呼びかけられたのだと、不思議な確信をもって振り向いた。

 姉の住むマンションから少し離れた、つまり僕がたった今前を通り過ぎた別のマンションの前に、女の子と男性が立っていた。顔立ちに似通ったところがあり、一見してすぐに「親子だな」と見当がついた。声からして、僕に「ミウラさん」と呼びかけたのは女の子の方だろう。小柄な可愛い子で、手に白杖を持っている。

「ミウラさんじゃないよ。男の方だから」

 一緒にいた男性が女の子にそう言い、「すみません」と僕に頭を下げた。

「でも、弟さんの方かも……」

 女の子はそう言いながら首を傾げる。僕は「あの、違います。ミウラではないです」と口を挟んだ。

「えっ、そうでした? ごめんなさい!」

 女の子は慌てた様子で僕に頭を下げた。別に迷惑をかけられたわけでもないから、僕は「いえいえ」と手を振ってその場を後にした。

 背後から女の子と男性の会話が聞こえた。

「何でミウラさんだと思ったんだ?」

「うーん、雰囲気? ミウラさんと同じだと思ったんだけど……」

 どうやらどこかに、僕に雰囲気? が似ている「ミウラ」という苗字の姉弟がいるらしい。白杖を持っていることからして、あの女の子は目が不自由なのだろう。外見ではないなんらかの基準でもって、僕を「ミウラさんに似ている」と思ったようだ。

 些細なことだけど、気が紛れて有難かった。今さっきマンションで見たものの記憶が、ほんの少しだけ希薄になった気がする。

 それにしても、姉は本当に大丈夫なのだろうか。

 実家の両親に相談するのも、ひどく心配をかけてしまいそうでためらわれる。とにあえず後で姉にメッセージなどを送ることにしよう。そんなことを考えながら歩き、時々軽く肩を回した。妙に凝るというか、重い感じがしたのだ。

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