04

「あら、ぶーぶーが落ちた」

 姉が歌うように言った。「響、ひーくん、ぶーぶーが落ちたねぇ。戻せるかな?」

「よしなよ」

 ぞっとして、思わず普段より強い口調になった。「風のせいか何かだろ」

「窓閉まってるのに風なんか吹かないでしょ。それに、ちょっと風が吹いたくらいじゃミニカーは動かないよ」

「じゃあ小さな地震とか、とにかくさ」

「いるの」

「よせって」

「ねえぇ、透はさぁ」

 一際大きな声で姉が僕の名前を呼んだ。「どう思う?」

「どうって」

 何のことかわからないよ、と言いかけた僕をまた遮るように姉が言った。

「これって響だよね?」

 暗い目をしていた。

「響じゃ……」

 僕は言いかけて口をつぐんだ。これじゃ「この部屋には何かがいる」と認めてしまったも同然だ。物音もミニカーが落ちたのも偶然だ。どちらも些細な現象に過ぎない。すぐには上手く説明できないけれど、たまたま何らかの原因があって、そういうことが起こっただけだ。なのに「響じゃなかったら今のは何なんだよ」なんて言ったら。

「響だよね? だって、他の誰かだったらおかしいもんね? こんなの、響じゃなきゃ辻褄があわないよね?」

 姉は畳みかけてきた。そんなもの、判断なんかつくわけがない。響か、響じゃないのか。いや、正解は「そもそも何もいない」だ。響かどうかじゃない。

「何もないよ、姉さん。ちょっと物音がしたりしただけだろ。なんの根拠もないのにそういうの、あんまりよくないと思うよ」

「根拠?」

 姉はちらりと横を見た。僕も同じ方向を見て、絶句した。

 テーブルの上にあった三つ目のロールケーキが、ぐちゃぐちゃに崩されている。

 姉は僕の目の前にずっと座っていた。彼女がロールケーキをいじったところは見ていない。もちろん僕でもない。

 何かがいる。部屋の中を走り、ミニカーをいじって落とし、ロールケーキを不器用に突き回して――

(まるで小さな子供だ)

 そのとき、視界の隅を何か黒いものが横切るのが、ほんの一瞬見えた。

 限界だ、と思った。

「かっ、帰る」

 乱暴に立ち上がった僕を、姉は止めようとはしなかった。

「そう。またおいでよ。遠くに住んでるわけじゃないんだから」

 バッグを掴んで慌ただしく靴を履く僕を、姉は何事もなかったみたいに玄関まで見送りにきた。僕だけ逃げ出そうとするのは卑怯だろうかと思いながらも、姉を見た途端助けようとする気力が萎えてしまう。姉の落ち着いた態度も、異様に暗い目つきも、背後に見えるリビングも、何もかもが怖ろしく思えた。

「うん、じゃあ、また」

 自分の声が聞こえているのがわかる。

 姉がリビングの方を振り向いた。

「響、叔父さんにバイバイは?」

 何かを耳に入れてしまう前に、僕はマンションの共有の廊下に飛び出した。

 心臓が喉の奥から飛び出しそうなほど鳴っていた。

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